五時半には僅に数分を余すのみであった。睡っている間も、ベーカー街一〇一番を忘れなかった私は、美しい幻を趁《お》いながら、仕度もそこそこに家を飛出した。
 附近の停車場前の溜場からタクシーに乗って一〇一番の家の前で下りると、重い扉の前に立って躊躇しながら呼鈴を押した。二分――三分と時が異様に過ぎていったが、何とも応えはなかった。極りの悪いような心持と、軽い不安が私の胸に覆いかかってきた。もしこうした事が運命なら、この重い扉は永久に開かれなくともよいなどと思ったが、それは只思っただけで、私の手はスッと延びて扉の中央についている金具をコツコツと叩いてしまった。
 扉の内側が急にざわざわして、廊下を往ったり、来たりする絹ずれの音が聞えてきた。誰かが声を潜《ひそ》めて何事か話合っている。間もなくそれ等の物音はパッタリと歇《や》んでしまった。私は石段の上でマゴマゴしているうちに、扉を細目にあけて、その隙間から顔を出したのは先前の老婦人であった。彼女は酷く狼狽《あわ》てているらしかったが、私を見るといくらか安心したらしく、
「よくいらっしゃいました。さアどうぞお入り下さい」と裏庭に面した書斎へ導いた
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