いった。
 何という奇蹟のような機会であろう。余りによすぎる話に先方の意《こころ》を計りかねて、しばらく躊躇したが、結局厚かましく招待に応ずる事にした。
 後刻を期して老婦人に別れた私は、限りない歓喜にうなだれ[#「うなだれ」に傍点]ながら、何処をどう通ったか、殆んど夢心地にグレー街へ帰りついた。五時半、五時半には何事があろうというのか。

        五

 銀行前で見掛けた例の見窄らしい老人は、何の為に不自由な体躯であんなところにいたのか、怪しむべき限りであるが、異様な喜悦に魅せられている私の胸に、チラと疑惑の白い雲を投げただけで、そのまま消えてしまった。
 グレー街の三階の部屋へ戻った時には、まだガラス窓に黄色い薄日が漣波《さざなみ》のように慄えていた。広い家の中はカタリともせず真夜中のように寂《しず》かであった。私は暖炉の前の長椅子に身を投げて、石炭の燃える快い音をきいているうちに、いつかグッスリと睡入ってしまった。
 夫から何時間|経過《た》ったか、眼を覚した時は部屋の中はすっかり昏くなって、窓の外に白っぽい霧が濛々と立罩めていた。私は周章てて机の上の時計を見ると、約束の
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