はないが……」とそんな事を漠然と思耽っていると、突然静まり返った階下から無気味な食事の鐘が聞えてきた。
私は手早く衣服を着けて食堂へ下りると、老人はとっくに食卓に就いていた。
「今日はS街の国民銀行へいって、十二番の窓口へこの書類を差出し、そこで用紙に署名をしてきて貰いたい」老人は私に銀行宛の厚い状袋を渡した。
国民銀行はS街の辻にあった。私が食事を済して銀行へついたのは九時半であった。窓口へ書類を差出して前の椅子に控えていると、商人体の男達や、白手袋に杖《ステッキ》を持った気取った男や、三つ釦のこくめい[#「こくめい」に傍点]なモーニングを着た律義らしい老人、其他とりどりに盛装した若い女達が、広い構内をざわざわ[#「ざわざわ」に傍点]と歩いていた。
私は夫等の人達が入替り立替り、重い押戸を開けて出てゆく姿を眺めているうちに、思掛けなく雑鬧のうちに、先夜サボイで見掛けた老婦人とぱったり視線を合せた。私は思わず声を出して馳寄ろうとしたが、不良い工合に私の番がきて、窓口から顔を出した行員が頻りに、
「ヒギンスさん、ヒギンスさん」と私の仮名を呼んだ。そうなっては仕方がない。私は行員の差
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