「仕事などは誰にでも出来る事だから、心配せんでもよろしい。ところで儂の方に条件があるが、それを聞いた上で返事をして貰わねばならぬ。
 第一は儂の命令がない限り、如何なる用事があろうとも絶対にこの部屋へ入る事はならぬ。
 第二は夜間九時以後は庭先を歩かぬ事。儂は寝付が不良《わる》くって困っておるのでな、夜分庭先などを歩かれると、気になって仕方がないのだよ」老人は微笑いながら更に言葉を続けて、
「それから飯田保次という君の姓だがね、呼び悪《にく》いからヒギンスと名乗って貰いたい」そのような他愛のない条件なら、何でもない。私は異議なく承知した。老人は気が早い。彼は満足気に私の手を堅く握って、
「家の晩餐は七時だから、それ迄に引移ってくるがいい」といった。
 ガスケル老人との会見は三十分程で済んだ。
 私は広い街路を夕陽を一杯に浴びながら、下宿へ帰った。地下室の家族の食堂へ下りていって、揉手をしながら立っている内儀さんに、私はこんな意味の事をいった。――詮《つま》り、これから自活する決心で今晩から某家へ雇われる事になった。永く辛抱が出来ればいいが、未来の事は誰にも判らない。不良《わ》るかったら
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