までゆくと、戸口を指さしてクルリと引返していった。
 婆さんの姿が廊下の曲り角に消えてしまうまで私は後を見送っていたが、詮方なく教えられた戸を軽く叩くと、内から返事があった。
 細長い大きな部屋の一隅にホロホロと暖炉《ストーブ》を焚いて深い凭《より》椅子に埋まっていた老人は、私を見ると杖を挙げて、
「もっとこっちへ来るがいい。儂はこの通りの※[#「やまいだれ+発」、335−9]疾者でな。立って歩く事が出来ない」見た様子の割に若々しい声でいった。私はいわれるままに側へ寄って、自分を名乗った。
「儂の世話はアグネスという女中が見てくれるので、君の暇は充分ある。君の手紙には希望条件はないとあったが、ない事はあるまい。一年の給料は?」
「実は私はまだ給料というものを他人から貰った事がありませんし、それに私の仕事の性質も伺っていないので見当がつかないのです」
「よろしい。では給料の点は儂に任《まか》しておくがいい、それから君は何日何時でも旅行に出られるだろうね。儂が新聞広告で係累《けいるい》のない人間を求めたのはそうした理由だよ」
「すぐ其場から、何処へでも飛出してゆけます。然し私の仕事は?」

前へ 次へ
全65ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
松本 泰 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング