人影がバラバラと露路の方へ走ってゆくところであった。物見高い群衆が刻々に謂集《あつま》ってきて、狭い露路は倏忽《たちまち》黒山のようになった。私は人垣の間を潜って、ようやく前へ出た。見ると、十数分前にサボイ劇場で、私の隣席にいた若い仏蘭西人が恐ろしい形相をして仰向に仆《たお》れている。真白なシャツの胸からカラーにかけて、生々しい鮮血が流れていた。
「心臓をやられたのだ」と誰かがいった。
「ナイフで一突にやったらしい」それに応えるものがあった。
「どけどけ、医者が来たんだ」私の傍にいた男は露路の外に停った自動車の音をきいて、後を振向いた途端、男の携《も》っていた懐中電灯がパッと私の足下を照らしていった。その瞬間私は自分の右足のわきに、見覚えのある彼女の扇子についていた緋房を発見した。それを見ると私は我事のように胸を跳らせた。そして人々が犇《ひしめ》き合っているうちに、大決心をもって落ちている緋房をそっと拾って掌に丸めこむと素知らぬ様子で、其場を立去った。
二
翌日は日曜であった。私は寝台の上で丸太を倒したように、前後も知らず睡り続けていた。眼を覚すと、窓を洩れてくる
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