薄光が、壁の石版画の額縁にさしていた。私は床の上へ起上って煙草を吸ったが、無数の縄を後頭部にくくりつけられているようで、ボンヤリと昨夜の夢を追っていた。
「昨夜の事件は何だろう」私はハッキリ、暗い露路の中で仰向けに仆れていた男の姿を思い浮べた。誰があの男を殺したのだろう、只の一突きで心臓をやられている。あれだけの事をやるには余程の力と、胆力がなくてはならぬ。そして不意に露路を飛出してきたあの時の彼女の慌て方、それから現場に落ちていた緋房、それは何事を語るものだろう。……でも私はあの高貴な、美しい顔を考えると、どうしても彼女を疑う気にはなれなかった。
 時計を見ると、十二時を過ぎている。扉の外においてある水差の湯は冷くなっていた。私は苦笑しながら手早く衣物を着換えて戸外へ出た。
 日曜の事であるから職業紹介所へいっても休みである。私は先ず停車場へいって新聞を買い、簡単に食事でもして来ようと思った。酒場の前を曲って遊園地の横手へ出ると、擦り切れた箒子《ほうき》を傍に立かけて、呆乎《ぼんやり》鉄柵に凭りかかっていた見|窄《すぼ》らしい様子をした老人が、
「旦那様、今日は」と叮嚀に挨拶をした。
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