たのを見究めてから、密に男の室へ入って見た。直ぐ目についたのは、牀《ゆか》の上に投出してあるトランクと手提鞄である。それには孰《いず》れもT・Cと姓名の頭文字が記してあった。彼はトランクの上の頭文字をじっと凝視めているうちに、トーマス・コルトンという、昔の恋敵の名を思出してきた。そうだ、そのコルトンだと林は心の中に叫んだ。もっとも彼は後にも先にも、一度しかその男と顔を合した事はなかった。而もそれは二十年以前チャタムの町で、エリスがひとりの男と一緒に歩いていた時の事であった。その男がコルトンであると、彼は後から聞されたのだ。
 フト廊下に跫音《あしおと》がしたので、林はハッとしたが、どうする事も出来ずに、其儘部屋に続いた奥の寝室《ベッドルーム》へ隠れた。彼は寝台の下で息を殺していると、跫音は部屋の前で止って、ツカツカと誰かが表部屋へ入ってきた。幸いにも数分の後に、跫音は廊下の外へ消えてしまった。
 林は危い思をしてようやく自室へ戻った。彼はつづいて戸外へ出たが、コルトンの姿は何処にも見えなかった。彼は物思いに沈みながら、歩調を緩《ゆる》めてブラブラと歩いているうちに、いつかクロムウェル街
前へ 次へ
全50ページ中45ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
松本 泰 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング