前夜ハムステッドの池の縁で、道路を横切っていった婦人の後姿が、ありありと目の前に浮んで来た。縁の広い帽子といい、背恰好といい、どうしてもその婦人《おんな》に違いない。坂口は或事を考えて急に険しい顔付になった。
婦人は間もなく酒場を出て去《い》った。
坂口は、笑いながら自分の前へ廻って来た給仕女《バアメイド》に、
「何だね、あの方は」と訊くと、
「大方狂人でしょうね。この一週間程前から、毎日のように来ていますよ」といった。
坂口は続いて表へ出た。彼は数間先を蹌踉《よろよろ》と歩いている女の背後から声をかけた。
「一寸お待ちなさい。貴女に訊きたい事があるのです」
女はギョッとして振返った。
「私と一緒に警察へ来て下さい」
女は少時相手の顔を凝視《みつ》めていたが、
「ああ、お前か。……既《も》うこうなっちゃア駄目だ。何処へでも連れて行くがいい。……私は神様の思召通り、真実の事をやったのだから、ちっとも恐れる事はない。何も彼《か》もすっかり言ってやる」と喚《わめ》いた。
坂口は通りすがりのタクシーを呼んで、足下の危しい女を扶《たす》け乗せると、運転手に命じてH警察署に急がせた。
前へ
次へ
全50ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
松本 泰 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング