ったのでしょう。伯父がいつになく旅行するといって前の晩から家へ帰らなかったのも不思議です」
 二人は言葉を止めて、各自別々の事を慮《かんが》え初めた。
 坂口は伯父の日頃の気質から、彼が恐ろしい殺人罪を犯したとはどうしても信じられなかった。永く外国の生活をしている程の伯父であるから、或は拳銃《ピストル》の一挺位は所持《も》っていたかも知れないが、それにしてもついぞ伯父の拳銃を見た事はない。……けれども又一方に、伯父が今日まで独身生活を続けているその理由を段々解して来たように思った。……伯父はエリスを愛している。世界中の誰よりもエリスを愛している。愛するものの為ならば、人間はどのような犠牲をも払う事が出来る……彼はそう思って慄然とした。ビアトレスはブラウスの襟に顎を埋めて、呆然《ぼんやり》と、足下の床に視線を落していた。彼女は別の世界に引込まれて行くような、頼りない心持になっていた。何かなしに、警察へいったきり母親はもう帰って来ないように考えられてならなかった。彼女は慌ててそれを打消そうと努めたが、払っても、払っても、次から次に浮んでくる不吉な幻影が一層彼女の心を重くした。そして今朝母親
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