けられるようにH公園の傍にあるパーク旅館の前へ出て了った。
 旅館から数間先に、小綺麗な酒場《バア》がある。彼はその朝軽い食事をしたのみで、午後四時になるまで、水一杯も口に入れなかった事を思出して苦笑した。それでも別に食慾はなかったが、かなり疲労《つか》れて頻りに咽喉の乾きを覚えていた。
 彼は酒場へ入って店台《カウンター》の前の丸椅子に腰をかけながら、炭酸水を交ぜたウイスキーをチビチビと飲んでいた。
 すると、羽目板を隔てた隣りの婦人室から、大声を上げて喋っている女の声が聞えて来た。何をいっているのか、坂口にはよく聴取れないが、明瞭《はっきり》した愛蘭《アイリッシュ》訛で、折々口ぎたない言葉を吐いていた。その度に二三の女達がドッと笑い崩れている。
 坂口は余り賑やかなので、何気なく店台の上から首を延して覗くと、それは慥かに火曜日の晩、コックス家の前に酔倒れていた婦人であった。
 彼女は余程酔っているらしく、片手に泡の立った黒ビールの杯《カップ》を持って、フラフラと室の中を歩廻っていた。坂口は苦々しげにその様子を眺めているうちに、フト忘れていた黒い陰影《かげ》が脳裡に拡がってきた。
 前夜ハムステッドの池の縁で、道路を横切っていった婦人の後姿が、ありありと目の前に浮んで来た。縁の広い帽子といい、背恰好といい、どうしてもその婦人《おんな》に違いない。坂口は或事を考えて急に険しい顔付になった。
 婦人は間もなく酒場を出て去《い》った。
 坂口は、笑いながら自分の前へ廻って来た給仕女《バアメイド》に、
「何だね、あの方は」と訊くと、
「大方狂人でしょうね。この一週間程前から、毎日のように来ていますよ」といった。
 坂口は続いて表へ出た。彼は数間先を蹌踉《よろよろ》と歩いている女の背後から声をかけた。
「一寸お待ちなさい。貴女に訊きたい事があるのです」
 女はギョッとして振返った。
「私と一緒に警察へ来て下さい」
 女は少時相手の顔を凝視《みつ》めていたが、
「ああ、お前か。……既《も》うこうなっちゃア駄目だ。何処へでも連れて行くがいい。……私は神様の思召通り、真実の事をやったのだから、ちっとも恐れる事はない。何も彼《か》もすっかり言ってやる」と喚《わめ》いた。
 坂口は通りすがりのタクシーを呼んで、足下の危しい女を扶《たす》け乗せると、運転手に命じてH警察署に急がせた。

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