七

 女の自白によって、林は其晩のうちに警察から放免された。
 寂しいクロムウェル街のコックス家からは、チャタム以来の華やかな、楽しい笑声が洩れた。エリス母子や、甥の坂口に囲まれた半白の林は、絶えず東洋人らしい無邪気な微笑を口許に湛えながら語った。

 林は火曜日の午後五時、所用を帯びて銀行へいった帰途《かえり》、チープサイドの喫茶店でお茶を飲んでいると、衝立の蔭にエリスともう一人見知らぬ男が席を占めているのを見た。場所柄エリスの来そうもないところなので、林は尠《すくな》からず不審に思った。二人はヒソヒソと話を続けていた。軈て二人は店を出た。フト見るとエリスと同年輩程の、服装の余り上等でない女が、二人の後を見え隠れに蹤《つけ》てゆくのであった。林は激しい人込の中で、いつか女を見失って了った。一方エリスは町角からタクシーへ乗った。見知らぬ男は地下鉄道の停車場へ下りていった。今から思えば、仮令エリスと一緒にいたからといって、見ず知らずの男を尾行しようという気を起したのは自分でも不思議であったと林は語った。
 それは日暮方であった。その男はK停車場で下車し、パーク旅館へ入った。
 男は金ぴかの制服を着た旅館の取次人《フートマン》に冗談口などをいいながら、帳場から自室の鍵を受取って階段を上っていった。
 林は取次人の傍へ寄って、
「あれはジェンキンさんじゃアないかね」と如才なく訊ねた。
「エドワードさんですよ」という取次人の言葉をきいて林は家へ帰った。そして数日間旅行をするという置手紙を残して再び家を出た。彼は小型の手提鞄をもっただけで、旅行客がたった今、倫敦へ着いた計りという様子で自動車をパーク旅館へ疾走らせた。彼は帳場で宿帳に自分の姓名を記入しながら、エドワードと名乗る男は、五階の百二十八号室に宿泊っている事を知り得た。成可く閑静な室をという注文が図にあたって、彼は五階の百二十七号室を占める事が出来た。エドワードという男は何処かで見た事のある顔だと思って頻りに記憶を辿って見るが、どうしても思出せない。
 夜の九時に近かった。隣室のエドワードという男は食堂へ下りていったようである。林も続いて階下へ行こうとしたが、自分でも見覚えのある位だから、恐らく先方でも自分を見知っているかも知れない、気取られてはならぬと思って食堂行は止めにした。彼は廊下に人気の絶え
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