やることにいくら意義があると思っても、行く山が好きでなくては、結局われわれは行かないのである。と言うことは、山想う心が一次的には常に山そのものに対する愛着だということを意味する。この戦争で故人となったが、前穂北尾根又白側に輝かしい足跡をとどめたM高のY君が、かつていみじくも洩らした言葉――山男はロマンチストだ――は、この辺の事情を物語る一つの感懐であろうが、私はこれを人間性の最も素朴な要素である美への好尚に帰して考えたい。
山の持つ美への渇仰――、山の美に憧れ、しかもそれの遠見に満足せず、もっと端的にその真っ只中へ飛び込んで一つに相解かれたいと願う心――、これこそ人間を駆って山へ向かわせる原動力だ。
華麗、陰惨、明快、幽邃《ゆうすい》、重厚、深遠、平和、兇猛……、山の美は選ぶ人の心により各様である。或る人は富士を佳い山といい、或る人は穂高ほど素晴らしい山はないと言う。高尾山など頼まれても嫌だと言う人もあれば、そのふくよかな谷間をこよなく愛する人もある。しかし、それぞれ評価のすべてを貫いて流れるものは美への好尚であり、押しなべて山想う心である。
とまれ、私は古いスケジュールを果たし
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