に安楽を求める心でもないであろう。シーイング、岩遊びの場合でもそうであるが、ことに登山の場合には一度目指された頂きはあくまでも追求されねばならず、いい加減でやめてしまうわけにはいかない。登山がスポーツとしての分野を持ちながら、なお全的にはスポーツといわれぬ理由もここにある。
古いノートを繰って見ると、その当時果たしたいと思ったスケジュールがずらりと書きつらねてある。年少ない頃は、世に困難とか不可能とか言われる登攀を、なんとかして自分の手で果たしてみたいと思う心が強かった。私はそれを恥ずべき心とは思っていない。否、むしろかような情熱が衰えていくことこそ警戒すべきものと思う。何事によらず、先人を凌ごうとするこの種のヒロイズムこそ、人類をして今日あらしめたと感ずるからだ。古いスケジュールのかなりの数はすでに実行したし、残っているものも、中には今ではとても真面目に考える気のしないものもあるが、多くは依然魅力を保っている。おそらく、自ら実行する可能性のある限り、これらは私の胸中に止まって、私を山へ駆りたてるであろう。ここに働くものを、人間の文化創造の本能と呼んではいけないだろうか。
しかし、
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