コスコと鼻の神経を無法に鋭くし心をこの一点に集めて見えぬ梅を嗅《か》ぎ出したりとすれば外の者(病鶴や小雨や)はそつちのけとなりて互に関係なき二ヶ条の趣向となり了らん。かつ「梅かをる朝」とばかりにてはさるむづかしき鼻の所作《しょさ》を現はし居らぬなり。もしまた梅の花が見えて居るのに「かをる」といひたりとすればそは昔より歌人の陥り居りし穴をいまだ得《え》出《いで》ずに居る者なり。元来人の五官の中にて視官と嗅官とを比較すれば視官の刺撃せらるる事多きは論を俟《ま》たず。梅を見たる時に色と香といづれが強く刺撃するかといへば色の方強きが常なり。故に「梅白し」といへばそれより香の聯想多少起れどもただ「梅かをる」とばかりにては今梅を見て居る処と受け取れずしてかへつて梅の花は見えて居らで薫のみ聞ゆる場合なるべし。しかるに古《いにしえ》よりこれを混同したる歌多きは歌人が感情の言ひ現はし方に注意せざる罪なり。この歌の作者は果していづれの意味にて作りたるか。次に最後の「朝」、この朝の字をここに置きたるが気にくはず。元来この歌に朝といふ字がどれほど必要……図に乗つて余り書きし故|筋《すじ》痛み出し、やめ。
 こ
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