保《てんぽう》八年後の製作に係《かか》るが如く天保八年の歌は既に老成して毫《ごう》も生硬渋滞の処を見ず。されば元義が一家の見識を立てて歌の上にも悟る所ありしは天保八年頃なりしなるべく弘化四年を卅六、七歳とすれば天保八年は其廿六、七歳に当るべし。されど弘化四年を卅六、七歳として推算すれば明治五、六年は六十二、三歳に当る訳なればここに記する年齢には違算ありて精確の者に非《あらざ》るが如し。
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[#地から2字上げ](二月二十四日)
元義の岡山を去りたるは人を斬《き》りしためなりともいひ不平のためなりともいふ。
元義は片足不具なりしため夏といへどもその片足に足袋《たび》を穿《うが》ちたり。よつて沖津の片足袋といふ諢名《あだな》を負ひたりといふ。
元義には妻なく時に婦女子に対して狂態を演ずる事あり。晩年|磐梨《いわなし》郡某社の巫女《みこ》のもとに入夫《にゅうふ》の如く入りこみて男子二人を挙げしが後|長子《ちょうし》は窃盗《せっとう》罪にて捕へられ次子もまた不肖の者にて元義の稿本抔《こうほんなど》は散佚《さんいつ》して尋ぬべからずといふ。
元義には潔癖あり。毎朝
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