どの資格を持たずと思ふ。このさいにおける論の当否は姑《しばら》く舎《お》く、平生茅堂が画におけるを観るに観察の粗なる嗜好《しこう》の単純なる到底《とうてい》一般素人の域を脱する能はざるが如し。詳《つまびら》かに言へば茅堂は写生の何たるをも能《よ》く解せざるべく、鳥羽僧正の写生の伎倆《ぎりょう》がどれだけに妙を極めたるかも解せざるべく、ただその好きな茶道より得たる幽玄簡単の一趣味を標準として、写生何かあらん、鳥羽僧正の画|毫《ごう》も幽玄の処なし、余り珍重すべき者に非ず、など容易に判断し去りたる事ならん。茅堂もし画の事を論ぜんとならば今少し画の事を研究して而して後に論ぜられたき者なり。楽焼《らくやき》主義ノンコ趣味を以て鳥羽僧正の画を律せんとするは瓢箪《ひょうたん》を以て鯰《なまず》を押ふるの類か。[#地から2字上げ](四月二十七日)
夕餉したため了りて仰向に寝ながら左の方を見れば机の上に藤を活けたるいとよく水をあげて花は今を盛りの有様なり。艶《えん》にもうつくしきかなとひとりごちつつそぞろに物語の昔などしぬばるるにつけてあやしくも歌心なん催されける。この道には日頃うとくなりまさりた
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