の歌人に向ひて、昔より伝へられたる数十百の歌集の中にて最《もっとも》善き歌を多く集めたるは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と答へん者|賀茂真淵《かものまぶち》を始め三、四人もあるべきか。その三、四人の中には余り世人に知られぬ平賀元義《ひらがもとよし》といふ人も必ず加はり居るなり。次にこれら歌人に向ひて、しからば我々の歌を作る手本として学ぶべきは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と躊躇《ちゅうちょ》なく答へん者は平賀元義一人なるべし。万葉以後一千年の久しき間に万葉の真価を認めて万葉を模倣《もほう》し万葉調の歌を世に残したる者実に備前《びぜん》の歌人平賀元義一人のみ。真淵の如きはただ万葉の皮相を見たるに過ぎざるなり。世に羲之《ぎし》を尊敬せざる書家なく、杜甫《とほ》を尊敬せざる詩家なく、芭蕉《ばしょう》を尊敬せざる俳家なし。しかも羲之に似たる書、杜甫に似たる詩、芭蕉に似たる俳句に至りては幾百千年の間絶無にして稀有《けう》なり。歌人の万葉におけるはこれに似てこれよりも更に甚《はなは》だしき者あり。彼らは万葉を尊敬し人丸《ひとまろ》を歌聖とする事において全く一致しながらも毫《ごう》も万葉調の歌を作らんとはせざりしなり。この間においてただ一人の平賀元義なる者出でて万葉調の歌を作りしはむしろ不思議には非《あらざ》るか。彼に万葉調の歌を作れと教へし先輩あるに非ず、彼の万葉調の歌を歓迎したる後進あるに非ず、しかも彼は卓然《たくぜん》として世俗の外に立ち独り喜んで万葉調の歌を作り少しも他を顧《かえりみ》ざりしはけだし心に大《おおい》に信ずる所なくんばあらざるなり。[#地から2字上げ](二月十四日)
天下の歌人|挙《こぞ》つて古今調《こきんちょう》を学ぶ、元義笑つて顧《かえりみ》ざるなり。天下の歌人挙つて『新古今』を崇拝す、元義笑つて顧ざるなり。而して元義独り万葉を宗《むね》とす、天下の歌人笑つて顧ざるなり。かくの如くして元義の名はその万葉調の歌と共に当時衆愚の嘲笑の裏《うち》に葬られ今は全く世人に忘られ了らんとす。
忘られ了らんとする時、平賀元義なる名は昨年の夏|羽生《はにゅう》某によりて岡山の新聞紙上に現されぬ、しかれどもこの時世に紹介せられしは「恋の平賀元義」なる題号の下に奇矯《ききょう》なる歌人、潔癖ある国学者、恋の奴隷としての平賀元義にして、万葉以来唯一の歌人としての平賀元義には非《あらざ》りき。幸にして備前|児島《こじま》に赤木格堂《あかぎかくどう》あり。元義かつてその地某家に寄寓せし縁故を以て元義の歌の散逸せる者を集めて一巻となしその真筆《しんぴつ》十数枚とかの羽生某の文をも併《あわ》せて余に示す。是《ここ》において余は始めて平賀元義の名を知ると共にその歌の万葉調なるを見て一たびは驚き一たびは怪しみぬ。けだし余は幾多の歌集を見、幾多の歌人につきて研究したる結果、真箇《しんこ》の万葉崇拝者をただ一人だに見出だす能はざるに失望し、歌人のふがひなく無見識なるは殆《ほとん》ど罵詈《ばり》にも値せずと見くびり居る時に当りて始めて平賀元義の歌を得たるを以て余はむしろ不思議の感を起したるなり。まぬけのそろひともいふべき歌人らの中に万葉の趣味を解する者は半人もなきはずなるにそも元義は何に感じてかかく万葉には接近したる。ここ殆ど解すべからず。[#地から2字上げ](二月十五日)
元義の歌は醇乎《じゅんこ》たる万葉調なり。故に『古今集』以後の歌の如き理窟と修飾との厭ふべき者を見ず。また実事実景に非《あらざ》れば歌に詠みし事なし。故にその歌|真摯《しんし》にして古雅|毫《ごう》も後世|繊巧《せんこう》※[#「女+無」、第4水準2−5−80]媚《ぶび》の弊に染まず。今数首を抄して一斑を示さん。
[#ここから2字下げ]
天保八年三月十八日自彦崎至長尾村途中
うしかひの子らにくはせと天地《あめつち》の神の盛りおける麦飯《むぎいい》の山
五月三日望逢崎
柞葉《ははそば》の母を念《おも》へば児島《こじま》の海|逢崎《おうさき》の磯|浪《なみ》立ちさわぐ
五月九日過藤戸浦
あらたへの藤戸の浦に若和布《わかめ》売るおとひをとめは見れど飽かぬかも
逢崎賞月
まそかゞみ清き月夜《つくよ》に児島の海逢崎山に梅の散る見ゆ
望父峰
父の峰雪ふりつみて浜風の寒けく吹けば母をしぞ思ふ
小田渡口
古《いにしえ》のますらたけをが渡りけん小田の渡りを吾《あれ》も渡りつ
神崎博之宅小飲二首
こゝにして紅葉《もみじ》を見つゝ酒のめば昔の秋し思ほゆるかも
盃に散り来《こ》もみぢ葉みやびをの飲む盃に散り来もみぢ葉
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](二月十六日)
元義の歌
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児島|
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