墨汁一滴
正岡子規
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)枕辺《まくらべ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)巻紙|状袋《じょうぶくろ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]
[#…]:返り点
(例)行々不[#レ]逢[#レ]仏。
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)しば/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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病める枕辺《まくらべ》に巻紙|状袋《じょうぶくろ》など入れたる箱あり、その上に寒暖計を置けり。その寒暖計に小き輪飾《わかざり》をくくりつけたるは病中いささか新年をことほぐの心ながら歯朶《しだ》の枝の左右にひろごりたるさまもいとめでたし。その下に橙《だいだい》を置き橙に並びてそれと同じ大きさほどの地球儀を据《す》ゑたり。この地球儀は二十世紀の年玉なりとて鼠骨《そこつ》の贈りくれたるなり。直径三寸の地球をつくづくと見てあればいささかながら日本の国も特別に赤くそめられてあり。台湾の下には新日本と記したり。朝鮮満洲|吉林《きつりん》黒竜江《こくりゅうこう》などは紫色の内にあれど北京とも天津とも書きたる処なきは余りに心細き思ひせらる。二十世紀末の地球儀はこの赤き色と紫色との如何《いか》に変りてあらんか、そは二十世紀|初《はじめ》の地球儀の知る所に非《あら》ず。とにかくに状袋箱の上に並べられたる寒暖計と橙と地球儀と、これ我が病室の蓬莱《ほうらい》なり。
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枕べの寒さ計《ばか》りに新年の年ほぎ縄を掛けてほぐかも
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](一月十六日)
一月七日の会に麓《ふもと》のもて来《こ》しつとこそいとやさしく興あるものなれ。長き手つけたる竹の籠《かご》の小く浅きに木の葉にやあらん敷きなして土を盛り七草をいささかばかりづつぞ植ゑたる。一草ごとに三、四寸ばかりの札を立て添へたり。正面に亀野座《かめのざ》といふ札あるは菫《すみれ》の如《ごと》き草なり。こは仏《ほとけ》の座《ざ》とあるべきを縁喜物《えんぎもの》なれば仏の字を忌みたる植木師のわざなるべし。その左に五行《ごぎょう》とあるは厚き細長き葉のやや白みを帯びたる、こは春になれば黄なる花の咲く草なり、これら皆寸にも足らず。その後に植ゑたるには田平子《たびらこ》の札あり。はこべらの事か。真後《まうしろ》に芹《せり》と薺《なずな》とあり。薺は二寸ばかりも伸びてはや蕾《つぼみ》のふふみたるもゆかし。右側に植ゑて鈴菜《すずな》とあるは丈《たけ》三寸ばかり小松菜のたぐひならん。真中に鈴白《すずしろ》の札立てたるは葉五、六寸ばかりの赤蕪《あかかぶら》にて紅《くれない》の根を半ば土の上にあらはしたるさま殊《こと》にきはだちて目もさめなん心地する。『源語《げんご》』『枕草子《まくらのそうし》』などにもあるべき趣《おもむき》なりかし。
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あら玉の年のはじめの七くさを籠に植ゑて来《こ》し病めるわがため
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](一月十七日)
この頃根岸|倶楽部《クラブ》より出版せられたる根岸の地図は大槻《おおつき》博士の製作に係《かか》り、地理の細精《さいせい》に考証の確実なるのみならずわれら根岸人に取りてはいと面白く趣ある者なり。我らの住みたる処は今|鶯《うぐいす》横町といへど昔は狸《たぬき》横町といへりとぞ。
[#ここから2字下げ]
田舎路はまがりくねりておとづるる人のたづねわぶること吾が根岸のみかは、抱一《ほういつ》が句に「山茶花《さざんか》や根岸はおなじ垣つゞき」また「さゞん花や根岸たづぬる革ふばこ」また一種の風趣《ふうしゅ》ならずや、さるに今は名物なりし山茶花かん竹《ちく》の生垣もほとほとその影をとどめず今めかしき石|煉瓦《れんが》の垣さへ作り出でられ名ある樹木はこじ去られ古《いにし》への奥州路《おうしゅうじ》の地蔵などもてはやされしも取りのけられ鶯の巣は鉄道のひびきにゆりおとされ水※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《くいな》の声も汽笛にたたきつぶされ、およそ風致といふ風致は次第に失せてただ細路のくねりたるのみぞ昔のままなり云々《うんぬん》
[#ここで字下げ終わり]
と博士は記《しる》せり。中にも鶯横町はくねり曲りて殊に分りにくき処なるに尋ね迷ひて空《むな》しく帰る俗客もあるべしかし。[#地から2字上げ](一月十八日)
蕪村《ぶそん》は天明《てんめい》三年十二月二十四日に歿したれば節季《せっき》の混雑の中にこの世を去りたるなり。しかるにこの忌日《き
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