じつ》を太陽暦に引き直せば西洋紀元千七百八十四年一月十六日金曜日に当るとぞ。即ち翌年の始に歿したる事となるなり。[#地から2字上げ](一月二十日)
伊勢山田の商人《あきんど》勾玉《こうぎょく》より小包送りこしけるを開き見ればくさぐさの品をそろへて目録一枚添へたり。
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祈平癒呈《へいゆをいのりてていす》
御両宮之真境(古版) 二
御神楽之図《おかぐらのず》(地紙) 五
五十鈴《いすず》川口のはぜ(薬といふ丑《うし》の日に釣《つ》る) 六
高倉山のしだ 一
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いたつきのいゆといふなる高倉の御山《みやま》のしだぞ箸《はし》としたまへ
辛丑《かのとうし》のはじめ
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[#地から5字上げ]大内人匂玉
まじめなる商人なるを思へば折にふれてのみやびもなかなかにゆかしくこそ。[#地から2字上げ](一月二十二日)
病床苦痛に堪へずあがきつうめきつ身も世もあらぬ心地なり。傍《かたわ》らに二、三の人あり。その内の一人、人の耳ばかり見て居るとよつぽど変だよ、など話して笑ふ。我は健《すこや》かなる人は人の耳など見るものなることを始めて知りぬ。[#地から2字上げ](一月二十三日)
年頃苦しみつる局部の痛《いたみ》の外に左横腹の痛|去年《こぞ》より強くなりて今ははや筆取りて物書く能《あた》はざるほどになりしかば思ふ事腹にたまりて心さへ苦しくなりぬ。かくては生けるかひもなし。はた如何《いか》にして病の牀《とこ》のつれづれを慰めてんや。思ひくし居るほどにふと考へ得たるところありて終《つい》に墨汁一滴《ぼくじゅういってき》といふものを書かましと思ひたちぬ。こは長きも二十行を限《かぎり》とし短きは十行五行あるは一行二行もあるべし。病の間《ひま》をうかがひてその時胸に浮びたる事何にてもあれ書きちらさんには全く書かざるには勝りなんかとなり。されどかかるわらべめきたるものをことさらに掲げて諸君に見《まみ》えんとにはあらず、朝々《あさあさ》病の牀にありて新聞紙を披《ひら》きし時我書ける小文章に対して聊《いささ》か自ら慰むのみ。
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筆《ふで》禿《ち》びて返り咲くべき花もなし
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ](一月二十四日)
去年の夏頃ある雑誌に短歌の事を論じて鉄幹《てっかん》子規《しき》と並記し両者同一趣味なるかの如くいへり。吾|以為《おも》へらく両者の短歌全く標準を異にす、鉄幹|是《ぜ》ならば子規|非《ひ》なり、子規是ならば鉄幹非なり、鉄幹と子規とは並称すべき者にあらずと。乃《すなわ》ち書を鉄幹に贈つて互に歌壇の敵となり我は『明星《みょうじょう》』所載《しょさい》の短歌を評せん事を約す。けだし両者を混じて同一趣味の如く思へる者のために妄《もう》を弁ぜんとなり。爾後《じご》病牀|寧日《ねいじつ》少く自ら筆を取らざる事数月いまだ前約を果さざるに、この事世に誤り伝へられ鉄幹子規|不可《ふか》並称《へいしょう》の説を以て尊卑《そんぴ》軽重《けいちょう》に因《よ》ると為すに至る。しかれどもこれらの事件は他の事件と聯絡して一時歌界の問題となり、甲論乙駁《こうろんおつばく》喧擾《けんじょう》を極めたるは世人をしてやや歌界に注目せしめたる者あり。新年以後病苦益※[#二の字点、1−2−22]加はり殊に筆を取るに悩む。終《つい》に前約を果す能はざるを憾《うら》む。もし墨汁一滴の許す限において時に批評を試むるの機を得んかなほ幸《さいわい》なり。[#地から2字上げ](一月二十五日)
俳句界は一般に一昨年の暮より昨年の前半に及びて勢を逞《たくまし》うし後半はいたく衰へたり。我《わが》短歌会は昨年の夏より秋にかけていちじるく進みたるが冬以後一|頓挫《とんざ》したるが如し。こは固《もと》より伎倆《ぎりょう》の退《しりぞ》きたるにあらず、されど進まざるなり。吾《わが》見る所にては短歌会諸子は今に至りて一の工夫もなく変化もなくただ半年前に作りたる歌の言葉をあそこここ取り集めて僅《わず》かに新作と為《な》しつつあるには非《あらざ》るか。かくいふわれもその中の一人なり。さはれ我は諸子に向つて強ひて反省せよとはいはず。反省する者は反省せよ。立つ者は立て。行く者は行け。もし心|労《つか》れ眼《まなこ》眠たき者は永《なが》き夜の眠《ねむり》を貪《むさぼ》るに如《し》かず。眠さめたる時|浦島《うらしま》の玉くしげくやしくも世は既に次の世と代りあるべきか如何《いかん》。[#地から2字上げ](一月二十七日)
人に物を贈るとて実用的の物を贈るは賄賂《わいろ》に似て心よからぬ事あり。実用以外の物を贈りた
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