る。
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[#地から2字上げ](五月十九日)
痛むにもあらず痛まぬにもあらず。雨しとしとと降りて枕頭《ちんとう》に客なし。古き雑誌を出して星野博士の「守護|地頭《じとう》考」を読む。十年の疑一時に解《と》くるうれしさ、冥土《めいど》への土産一つふえたり。[#地から2字上げ](五月二十日)
余は閻魔《えんま》の大王の構へて居る卓子《テーブル》の下に立つて
「お願ひでござりまする。
といふと閻魔は耳を擘《つんざ》くやうな声で
「何だ。
と答へた。そこで私は根岸の病人何がしであるが最早|御庁《おんちょう》よりの御迎へが来るだらうと待つて居ても一向に来んのはどうしたものであらうか来るならいつ来るであらうかそれを聞きに来たのである、と訳を話して丁寧に頼んだ。すると閻魔はいやさうな顔もせず直《すぐ》に明治三十四年と五年の帖面を調べたが、そんな名は見当らぬといふ事で、閻魔先生少しやつきになつて珠数《じゅず》玉のやうな汗を流して調べた結果、その名前は既に明治三十年の五月に帳消しになつて居るといふ事が分つた。それからその時の迎へに往たのは五号の青鬼であるといふ事も書いてあるのでその青鬼を呼んで聞いて見ると、その時迎へに往たのは自分であるが根岸の道は曲りくねつて居るのでとうとう家が分らないで引つ返して来たのだ、といふ答であつた。次に再度の迎へに往たといふ十一号の赤鬼を呼び出して聞いて見ると、なるほどその時往たことは往たが鶯《うぐいす》横町といふ立札の処まで来ると町幅が狭くて火の車が通らぬから引つ返した、といふ答である。これを聞いた閻魔様は甚だ当惑顔に見えたので、傍から地蔵様が
「それでは事のついでにもう十年ばかり寿命を延べてやりなさい、この地蔵の顔に免じて。
などとしやべり出された。余はあわてて
「滅相《めっそう》なこと仰《おっ》しやりますな。病気なしの十年延命なら誰しもいやはございません、この頃のやうに痛み通されては一日も早くお迎への来るのを待つて居るばかりでございます。この上十年も苦しめられてはやるせがございません。
閻王《えんおう》は直に余に同情をよせたらしく
「それならば今夜すぐ迎へをやろ。
といはれたのでちよつと驚いた。
「今夜は余り早うございますな。
「それでは明日の晩か。
「そんな意地のわるい事をいはずに、いつとなく突然来てもらひたいものですな。
閻王はせせら笑ひして
「よろしい、それでは突然とやるよ。しかし突然といふ中には今夜も含まれて居るといふ事は承知して居てもらひたい。
「閻魔《えんま》様。そんなにおどかしちやあ困りますよ。(この一句|菊五《きくご》調)
閻王からから笑ふて
「こいつなかなか我儘《わがまま》ツ子ぢやわい。(この一句|左団《さだん》調)
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拍子木《ひょうしぎ》 幕
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[#地から2字上げ](五月二十一日)
遠洋へ乗り出して鯨《くじら》の群を追ひ廻すのは壮快に感ぜられるが佃島《つくだじま》で白魚舟《しらうおぶね》が篝《かがり》焚《た》いて居る景色などは甚だ美しく感ぜられる。太公望《たいこうぼう》然として百本杭に鯉《こい》を釣つて居るのも面白いが小い子が破れた笊《ざる》を持つて蜆《しじみ》を掘つて居るのも面白い。しかし竹の先に輪をつけて臭い泥溝をつついてアカイコ(東京でボーフラ)を取つては金魚の餌《えさ》に売るといふ商売に至つては実に一点の風流気もない。それでも分類するとこれもやはり漁業といふ部に属するのださうな。[#地から2字上げ](五月二十二日)
漱石が倫敦《ロンドン》の場末の下宿屋にくすぶつて居ると、下宿屋の上《かみ》さんが、お前トンネルといふ字を知つてるかだの、ストロー(藁《わら》)といふ字の意味を知つてるか、などと問はれるのでさすがの文学士も返答に困るさうだ。この頃|伯林《ベルリン》の灌仏会《かんぶつえ》に滔々《とうとう》として独逸《ドイツ》語で演説した文学士なんかにくらべると倫敦の日本人はよほど不景気と見える。[#地から2字上げ](五月二十三日)
病床に寐て一人聞いて居ると、垣の外でよその細君の立話がおもしろい。
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あなたネ提灯《ちょうちん》を借りたら新しい蝋燭《ろうそく》をつけて返すのがあたりまへですネそれをあなた前の蝋燭も取つてしまふ人がありますヨ同じ事ですけれどもネさういつたやうな事がネ……
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などとどつかの悪口をいつて居る。今の政治家実業家などは皆提灯を借りて蝋燭を分捕《ぶんどり》する方の側だ。尤《もっと》もづうづうしいやつは提灯ぐるみに取つてしまつて平気で居るやつもある。
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提灯を返せ/\と時鳥《ほととぎす》
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