で、伯父の内へ往て後独り野道へ出て何かこの懐剣で切つて見たいと思ふて終《つい》にとめ紐《ひも》を解いてしまふた。そこでその足元にあつた細い草を一本つかんでフツと切ると固《もと》より切るほどの草でもなかつたので力は余つて懐剣の切先《きっさき》は余が左足の足首の処を少し突き破つた。子供心に当惑して泣く泣く伯父の内まで帰ると果して母にさんざん叱られた事があつた。その時の小さい疵《きず》は長く残つて居てそれを見るたびに昔を偲《しの》ぶ種となつて居たが、今はその左の足の足首を見る事が出来ぬやうになつてしまふた。[#地から2字上げ](五月十六日)
痛くて痛くてたまらぬ時、十四、五年前に見た吾妻村《あずまむら》あたりの植木屋の石竹畠《せきちくばたけ》を思ひ出して見た。[#地から2字上げ](五月十七日)
『春夏秋冬』序
『春夏秋冬』は明治の俳句を集めて四季に分《わか》ち更に四季の各題目によりて編《あ》みたる一小冊子なり。
『春夏秋冬』は俳句の時代において『新俳句』に次ぐ者なり。『新俳句』は明治三十年|三川《さんせん》の依托《いたく》により余の選抜したる者なるが明治三十一年一月余は同書に序して
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(略)元禄にもあらず天明にもあらず文化にもあらず固より天保《てんぽう》の俗調にもあらざる明治の特色は次第に現れ来るを見る(略)しかもこの特色は或る一部に起りて漸次《ぜんじ》に各地方に伝播《でんぱ》せんとする者この種の句を『新俳句』に求むるも多く得がたかるべし。『新俳句』は主として模倣時代の句を集めたるにはあらずやと思はる。(略)但《ただし》特色は日を逐《お》ふて多きを加ふ。昨集むる所の『新俳句』は刊行に際する今已にそのいくばくか幼稚なるを感ず。刊行し了へたる明日は果して如何に感ぜらるべき。云々
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といへり。果して『新俳句』刊行後『新俳句』を開いて見るごとに一年は一年より多くの幼稚と平凡と陳腐とを感ずるに至り今は『新俳句』中の佳什《かじゅう》を求むるに十の一だも得る能はず。是において新たに俳句集を編むの必要起る。しかれども『新俳句』中の俳句は今日の俳句の基礎をなせる者よろしく相参照すべきなり。
『新俳句』編纂《へんさん》より今日に至る僅かに三、四年に過ぎざれどもその間における我一個または一団体が俳句上の経歴は必ずしも一変再変に止まらず。しかも一般の俳句界を概括してこれを言へば「蕪村《ぶそん》調成功の時期」とも言ふべきか。
蕪村崇拝の声は早くも已に明治二十八、九年の頃に盛なりしかど実際蕪村調とおぼしき句の多く出でたるは明治三十年以後の事なるべし。而して今日蕪村調成功の時期といふも他日より見れば如何なるべきか固より予《あらかじ》め知る能はず。
太祇《たいぎ》蕪村|召波《しょうは》几董《きとう》らを学びし結果は啻《ただ》に新趣味を加へたるのみならず言ひ廻しに自在を得て複雑なる事物を能く料理するに至り、従ひてこれまで捨てて取らざりし人事を好んで材料と為すの異観を呈せり。これ余がかつて唱道したる「俳句は天然を詠ずるに適して人事を詠ずるに適せず」といふ議論を事実的に打破したるが如し。
『春夏秋冬』は最近三、四年の俳句界を代表したる俳句集となさんと思へり。しかも俳句切抜帳に対して択ばんとすれば俳句多くして紙数に限りあり、遂に茫然として為す所を知らず。辛うじて択び得たる者また到底俳句界を代表し得る者に非ず。されどもし『新俳句』を取つてこれと対照せばその差|啻《ただ》に五十歩百歩のみならざるべし。
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明治三十四年五月十六日 獺祭書屋《だっさいしょおく》主人
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[#地から2字上げ](五月十八日)
『春夏秋冬』凡例
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一 『春夏秋冬』は明治三十年以後の俳句を集め四季四冊となす。
一 各季の題目は時候、人事、天文、地理、動物、植物の順序に従ふ。時候は立春、暮春《ぼしゅん》、余寒《よかん》、暖《あたたか》、麗《うらら》、長閑《のどか》、日永《ひなが》の類をいふ。人事は初午《はつうま》、二日灸《ふつかきゅう》、涅槃会《ねはんえ》、畑打《はたうち》、雛祭《ひなまつり》、汐干狩《しおひがり》の類をいふ。天文は春雪、雪解、春月、春雨、霞、陽炎《かげろう》の類をいふ。地理は氷解、水ぬるむ、春水、春山の類をいふ。動物は大略|獣《けもの》、鳥、両棲《りょうせい》爬虫《はちゅう》類、魚、百虫の順序を用ゐる。植物は木を先にし草を後にす、木は花木を先にし草は花草を先にす。
一 新年はこれを四季の外とし冬の部の附録とす。その他は従来の定規に従ふ。
一 撰択の標準は第一佳句、第二流行したる句、第三多くの選に入りし句等の条項に拠《よ》
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