せば九時半頃なりき。やや心地よし。ほととぎすの歌十首に詠み足し、明日の俳句欄にのるべき俳句と共に封じて、使《つかい》して神田に持ちやらしむ。
十一時半頃|午餐《ごさん》を喰ふ。松魚《かつお》のさしみうまからず、半人前をくふ。牛肉のタタキの生肉少しくふ、これもうまからず。歯痛は常にも起らねど物を噛めば痛み出すなり。粥《かゆ》二杯。牛乳一合、紅茶同量、菓子パン五、六箇、蜜柑《みかん》五箇。
神田より使帰る。命じ置きたる鮭《さけ》のカン詰を持ち帰る。こはなるべく歯に障《さわ》らぬ者をとて択びたるなり。
『週報』応募の牡丹《ぼたん》の句の残りを検す。
寐床の側の畳に麻もて箪笥《たんす》の環《かん》の如き者を二つ三つ処々にこしらへしむ。畳堅うして畳針|透《とお》らずとて女ども苦情たらだらなり。こはこの麻の環を余の手のつかまへどころとして寐返りを扶《たす》けんとの企《くわだて》なり。この頃体の痛み強く寐返りにいつも人手を借るやうになりたれば傍に人の居らぬ時などのためにかかる窮策を発明したる訳なるが、出来て見れば存外《ぞんがい》便利さうなり。
繃帯《ほうたい》取替にかかる。昨日は来客のため取替せざりしかば膿《うみ》したたかに流れ出て衣を汚せり。背より腰にかけての痛今日は強く、軽く拭《ぬぐ》はるるすら堪へがたくして絶えず「アイタ」を叫ぶ。はては泣く事例の如し。
浣腸《かんちょう》すれども通ぜず。これも昨日の分を怠りしため秘結《ひけつ》せしと見えたり。進退|谷《きわ》まりなさけなくなる。再び浣腸す。通じあり。痛けれどうれし。この二仕事にて一時間以上を費す。終る時三時。
著物《きもの》二枚とも著《き》かふ、下著《したぎ》はモンパ、上著は綿入。シヤツは代へず。
三島神社祭礼の費用取りに来る。一|匹《ぴき》やる。
繃帯かへ終りて後体も手も冷えて堪へがたし。俄《にわか》に燈炉《とうろ》をたき火鉢をよせ懐炉《かいろ》を入れなどす。
繃帯取替の間|始終《しじゅう》右に向き居りし故背のある処痛み出し最早右向を許さず。よつて仰臥《ぎょうが》のままにて牛乳一合、紅茶ほぼ同量、菓子パン数箇をくふ。家人マルメロのカン詰をあけたりとて一片《ひときれ》持ち来る。
豆腐屋|蓑笠《みのかさ》にて庭の木戸より入り来る。
午後四時半体温を験《けん》す、卅八度六分。しかも両手なほ冷《ひややか》、この頃は卅八度の低熱にも苦しむに六分とありては後刻の苦《くるしみ》さこそと思はれ、今の内にと急ぎてこの稿を認《したた》む。さしあたり書くべき事もなく今日の日記をでたらめに書く。仰臥のまま書き終る時六時、先刻より熱発してはや苦しき息なり。今夜の地獄思ふだに苦し。
雨は今朝よりふりしきりてやまず。庭の牡丹《ぼたん》は皆散りて、西洋葵《せいようあおい》の赤き、をだまきの紫など。[#地から2字上げ](五月十二日)
今日は闕。但草稿卅二字余が手もとにあり。[#地から2字上げ](五月十三日)
松の若緑は一尺もあらうと思ふのがズンズンと上へ真直に伸びて行く。杉の新芽は小いのがいくつ出ても皆下へぶら下つてしまふ。それでも丈くらべしては到底松は杉に及びはせぬ。[#地から2字上げ](五月十四日)
五月はいやな月なり。この二、三日|漸《ようや》く五月心地になりて不快に堪へず。頭もやもや考《かんがえ》少しもまとまらず。
夢の中では今でも平気に歩行《ある》いて居る。しかし物を飛びこえねばならぬとなるといつでも首を傾ける。
この頃の天気予報の当らぬにも驚く。
体の押されて痛い時は外に仕方がないから、物に触れぬやうに空中にフハリと浮きたいと思ふ、空気の比重と人間の比重とを同じにして。
去年の今頃はゐざるやうにして次の間位へは往かれたものが今年の今は寐返りがむつかしくなつた。来年の今頃は動かれぬやうになつて居るであらう。
先日余の引いた凶の鬮《くじ》を穴守様《あなもりさま》で流してもらふたとわざわざ鼠骨《そこつ》の注進。
筍《たけのこ》が掘つて見たい。
日光新緑を射て驟雨《しゅうう》一過、快。緑のぬれぬれしたる中を鴉《からす》一羽葉に触れさうに飛んで行く。
附記、後で見れば文体一致せず。頭のわるい証《しるし》なり。[#地から2字上げ](五月十五日)
今日は朝から太鼓がドンドンと鳴つて居る。根岸のお祭なんである。お祭といふとすぐに子供の時を思ひ出すが、余がまだ十か十一位の事であつたらう、田舎に郷居《さとい》して居た伯父の内へお祭で招かれて行く時に余は懐剣《かいけん》をさして往た。これは余の内には頑固な風が残つて居て、男は刀をさすべきであるが今となつてはそれも憚《はばか》りであるから、せめて懐剣でもさして往くが善いといふので母の懐剣を貸されたのである。余はそれが嬉しいの
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