ゆる新派の若手と共に走りツこをもやらるる覚悟と見えて勇ましとも勇ましき事なり。次の歌は
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亀の背に歌かきつけてなき乳母《うば》のはなちし池よふか沢の池
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いよいよ分りにくき歌となりたり。この歌くり返して読むほど益※[#二の字点、1−2−22]分らず、どうしても裏面に一条の小説的話説でもありさうに思はるるなり。先づこの歌の趣向につきて起るべき疑問を列挙せんか。第一、この歌の作者の地位に立つべき者は少年なるか少女なるか、かつその少年か少女かは如何なる身分の人なるか。第二、亀の背に歌書きたるは何のためか、いたづらの遊びか、何かのまじなひか、あるいは紅葉題詩といふ古事に傚《なら》ひて亀に恋の媒《なかだち》でも頼みたる訳か。第三、乳母は如何なる素性《すじょう》の女にて、どれほどの教育ありしか。第四、乳母の死にしは何年前にして、病死か、はた自殺か。第五、乳母の死と亀の事と何らの関係なきかあるか。凡《およ》そこれらの事をたしかめたる後に非ざればこの歌の評に取り掛る能はず。もしそんな複雑な事も何もあらずただこの表面だけの趣向とすればまるで狐《きつね》につままれたやうな趣向なり。なぜといふに亀の背に歌かくといふ事既に不思議にして本気の沙汰《さた》と思はれぬに、しかもその歌の書き主が乳母である事いよいよ不思議なり。普通には無学文盲にていろはすら知らぬが多き乳母(の中にて特に歌よみの乳母)を持ち出したるは何故ぞ。はたその乳母が既に死んで居るに至つては不思議といふも愚なる次第なり。されどかかる野暮《やぼ》評は暫《しばら》く棚に上げてずつと推察した処で、池を見て亡き乳母を懐《おも》ふといふある少女の懐旧の歌ならんか。仮りにそれとして結句ばかりを評すれば「深沢の池」とばかりにては固有名詞か普通名詞かそれも判然せず、気ぬけのしたるやうに思はる。普通名詞としては無論面白からず。小説的固有名詞なりとすれば乳母の名も「おたよ」とか「おふく」とかありたき心地す。以上はこの歌を小説的の趣向と見て評したる者なれど、もし深沢の池は実際の固有名詞にして亀に歌書くなどいふ事実もあるものとすれば更に入口を変へて評せざるべからず。しかし余り長くなる故に略す。[#地から2字上げ](三月二十九日)
『明星』所載落合氏の歌
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簪《かざし》もて深さはかり
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