コスコと鼻の神経を無法に鋭くし心をこの一点に集めて見えぬ梅を嗅《か》ぎ出したりとすれば外の者(病鶴や小雨や)はそつちのけとなりて互に関係なき二ヶ条の趣向となり了らん。かつ「梅かをる朝」とばかりにてはさるむづかしき鼻の所作《しょさ》を現はし居らぬなり。もしまた梅の花が見えて居るのに「かをる」といひたりとすればそは昔より歌人の陥り居りし穴をいまだ得《え》出《いで》ずに居る者なり。元来人の五官の中にて視官と嗅官とを比較すれば視官の刺撃せらるる事多きは論を俟《ま》たず。梅を見たる時に色と香といづれが強く刺撃するかといへば色の方強きが常なり。故に「梅白し」といへばそれより香の聯想多少起れどもただ「梅かをる」とばかりにては今梅を見て居る処と受け取れずしてかへつて梅の花は見えて居らで薫のみ聞ゆる場合なるべし。しかるに古《いにしえ》よりこれを混同したる歌多きは歌人が感情の言ひ現はし方に注意せざる罪なり。この歌の作者は果していづれの意味にて作りたるか。次に最後の「朝」、この朝の字をここに置きたるが気にくはず。元来この歌に朝といふ字がどれほど必要……図に乗つて余り書きし故|筋《すじ》痛み出し、やめ。
 こんな些細な事を論ずる歌よみの気が知れず、などいふ大文学者もあるべし。されどかかる微細なる処に妙味の存在なくば短歌や俳句やは長い詩の一句に過ぎざるべし。[#地から2字上げ](三月二十八日)

『明星』所載落合氏の歌
[#ここから2字下げ]
いざや子ら東鑑《あずまかがみ》にのせてある道はこの道はるのわか草
[#ここで字下げ終わり]
 この歌一読、変な歌なり。先づ第一句にて「子ら」と呼びかけたれば全体が子らに対する言葉なるべしと思ひきや言ひかけは第四句に止まり第五句は突然と叙景の句を出したり。変な歌といはざるを得ず。あるいは第五句もまた子らにいひかけたる言葉と見んか、いよいよ変なり。また初《はじめ》に「いざや」とあるは子らを催す言葉なれどもこの歌一向に子らを催して何をするとも言はず。どうしても変なり。この歌のために謀《はか》るに最上の救治策は「いざや子ら」の一句を省くに如かず。代りに「いにしへの」とか何とか置くべし。さすれば全体の意味通ずる故少々変なれども大した変にもならざるか。そはとにかくに前の歌の結句といひこの歌の結句といひ思ひきりて佶屈《きっくつ》に詠まるる処を見れば作者も若返りていは
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