して詠みたるものとすればそれでも善けれど、しかしそれならば「見てわれ立てば」といふが如き作者の位置を明瞭に現はす句はなるべくこれを避けてただ漠然とその景色のみを叙せざるべからず。もしこの趣向の中に作者をも入れんとならば動物園か個人の庭かをも明瞭にならしむべし。これ全体の趣向の上より結句に対する非難なりき。次にこの結句を「小雨ふりきぬ」といふ切れたる句の下に置きて独立句となしたる処に非難あり。此《かく》の如き佶屈《きっくつ》なる調子も詠みやうにて面白くならぬにあらねどこの歌にては徒《いたずら》に不快なる調子となりたり。筒様に結句を独立せしむるには結《むすび》一句にて上《かみ》四句に匹敵するほどの強き力なかるべからず。
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法師らが髯《ひげ》の剃り杭に馬つなぎいたくな引きそ「法師なからかむ」 (万葉十六)
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といふ歌の結句に力あるを見よ。新古今に「たゞ松の風」といへるもこの句一首の魂なればこそ結に置きたるなれ。しかるに「梅かをる朝」にては一句軽くして全首の押へとなりかぬるやう思はる。先づこの歌の全体を考へ見よ。こは病鶴と小雨と梅が香と取り合せたる趣向なるがその景色の内にて最も目立つ者は梅が香にあらずして病鶴なるべし。しかるに病鶴は一首の初め一寸置かれて客たるべき梅の香が結句に置かれし故尻軽くして落ちつかぬなり。せめて病鶴を三、四の句に置かばこの尻軽を免れたらん。一番|旨《うま》い皿を初めに出しては後々に出る物のまづく感ぜらるる故に肉汁を初に、フライまたはオムレツを次に、ビステキを最後に出すなり。されど濃厚なるビステキにてひたと打ち切りてはかへつて物足らぬ故更に附物《つけもの》として趣味の変りたるサラダか珈琲《コーヒー》菓物《くだもの》の類を出す。歌にてもいかに病鶴が主なればとて必ず結句の最後に病鶴と置くべしとにはあらず。病鶴を三、四の句に置きて「梅かをる朝」といふ如きサラダ的一句を添ふるは悪き事もなかるべけれどさうなりし処でこの「梅かをる朝」といふ句にては面白からず。この結一句の意味は判然と分らねどこれにては梅の樹見えずして薫《かおり》のみする者の如し。さすれば極めてことさらなる趣向にて他と調和せず。何故といふに梅が香は人糞《じんぷん》の如き高き香にあらねばやや遠き処にありてこれを聞くには特に鼻の神経を鋭くせずば聞えず。もしス
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