んこ》として眉宇《びう》の間に現はれ居れどもその枯燥《こそう》の態は余をして無遠慮にいはしむれば全く活《い》きたる羅漢《らかん》なり。『日本』紙上連日の俳句和歌時に文章如何にしてこの人より出づるかを疑ふまでに余は深き感に撃たれたり。
蕪村忌写真中余の面識ある者は鳴球氏一人のみ。前面の虚子《きょし》氏はもつと勿体ぶつて居るかと思ひしに一向無造作なる風采なり。鳴雪《めいせつ》翁は大老人にあらずして還暦には今一ト昔もありさうに思はる。独り洋装したるは碧梧桐《へきごとう》氏にして眼鏡の裏に黒眸《こくぼう》を輝かせり。他の諸氏の皆年若なるには一驚を喫したり。
[#ここで字下げ終わり]
 去る頃ある雑誌に「竹の里人が禿頭《はげあたま》を振り立てて」など書ける投書あるを見たり。竹の里人を六十、七十の老人と見たるにや。もしこれらの人の想像通りに諸家の容貌を描き出さしめば更に面白からん。[#地から2字上げ](三月十六日)

 誤りやすき字につきて或人は盡の上部は聿《いつ》なり※[#「門<壬」、63−11]《じゅん》の中は王なりなど『説文《せつもん》』を引きて論ぜられ、不折《ふせつ》は古碑の文字古法帖の文字|抔《など》を目《ま》のあたり示して※[#「入/王」、63−12]※[#「内」の「人」に代えて「入」、63−12]吉などの字の必ずしも入にあらず必ずしも士にあらざる事を説明せり。かく専門的の攻撃に遇《あ》ひては余ら『康熙字典《こうきじてん》』位を標準とせし素人先生はその可否の判断すら為しかねて今は口をつぐむより外なきに至りたり。なほ誤字につきて記する所あらんとせしが何となくおぢ気つきたれば最早知つた風の学者ぶりは一切為さざるべし。
 漢字の研究は日本文法の研究の如く時代により人により異同変遷あるを以て多少の困難を免れず。『説文』により古碑の文字により比較考証してその正否を研究するは面白き一種の学問ならんもそは専門家の事にして普通の人の能《よ》くする所にあらず。普通の人が楷書の標準として見んはやはり『康熙字典』にて十分ならん。ただ余が先に余り些細なる事を誤謬《ごびゅう》といひし故にこの攻撃も出で来しなればそれらは取り消すべし。されど甲の字と乙の字と取り違へたるほどの大誤謬(祟[#「祟」に白丸傍点]タタルを崇[#「崇」に白丸傍点]アガムに誤るが如き)は厳しくこれを正さざるべからず。
[#
前へ 次へ
全98ページ中37ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 子規 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング