事なれど、幾年経てもこの泥棒的境涯を脱し得ざる人あり。気の毒の事なり。[#地から2字上げ](三月十三日)
今日は病室の掃除だといふので昼飯後|寐牀《ねどこ》を座敷の方へ移された。この二、三日は右向になつての仕事が過ぎたためでもあるか漸《ようや》く減じて居た局部の痛《いたみ》がまた少し増して来たので、座敷へ移つてからは左向に寐て痛所をいたはつて居た。いつもガラス障子の室に居たから紙障子に松の影が写つて居るのも趣が変つて初めは面白かつたが、遂にはそれも眼に入らぬやうになつてただ痛ばかりがチクチクと感ぜられる。いくら馴《な》れて見ても痛むのはやはり痛いので閉口して居ると、六つになる隣《となり》の女の子が画いたといふ画《え》を内の者が持つて来て見せた。見ると一尺ばかりの洋紙の小切《こぎれ》に墨で画いてある。真中に支那風の城門(勿論輪郭ばかり)を力ある線にて真直に画いて城楼《じょうろう》の棟には鳥が一羽とまつて居る。この城門の粉本《ふんぽん》は錦絵にあつたかも知らぬが、その城楼の窓の処を横に三分して「オ、シ、ロ」の三字が一区劃に一字づつ書いてあるのは新奇の意匠に違ひない。実に奇想だ。それから城門の下には猫が寐て居る。その上に「ネコ」と書いてある。輪郭ばかりであるが慥《たし》かに猫と見える。猫の右側には女の立つて居る処が画いてあるが、お児髷《ちごまげ》で振袖で下駄はいてしかも片足を前へ蹈み出して居る処まで分る。帯も後側だけは画いてある。城門の左側には自分の名前が正しく書けて居る。見れば見るほど実に面白い。城門に猫に少女といふ無意識の配合も面白いが棟の上に鳥が一羽居る処は実に妙で、最高い処に鳥が囀《さえず》つて居て最低い処に猫が寐て居る意匠|抔《など》は古今の名画といふても善い。見て居る内に余は興に乗つて来たので直《ただち》に朱筆を取つて先づ城楼の左右に日の丸の旗を一本宛画いた。それから猫に赤い首玉を入れて鈴をつけて、女の襟と袖口と帯とに赤い線を少し引いて、頭には総《ふさ》のついた釵《かんざし》を一本|着《つ》けた。それから左の方の名前の下に裸人形の形をなるべく子供らしく画いて、最後に小鳥の羽をチヨイと赤くした。さてこの合作の画を遠ざけて見ると墨と朱と善く調和して居る。うれしくてたまらぬ。そこで乾菓子《ひがし》や西洋菓子の美しいのをこの画に添へて、御褒美《ごほうび》だといふて
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