ざりしは千古の惨事とすべし。元義の終始不遇なるに対して曙覧が春嶽《しゅんがく》の知遇を得たるは晩年やや意を得たるに近し、しかも二人共に王家の臣たる能はざりしは死してもなほ遺憾あるべきにや。
 曙覧は汚穢《おわい》を嫌はざりし人、されど身のまはりは小奇麗《こぎれい》にありしかと思はる。元義は潔癖の人、されど何となくきたなき人には非《あらざ》りしか。
 四家の歌を見るに、実朝と宗武とは気高くして時に独造の処ある相似たり。但《ただし》宗武の方、覇気やや強きが如し。曙覧は見識の進歩的なる処、元義の保守的なるに勝れりとせんか、但伎倆の点において調子を解する点において曙覧は遂に元義に如かず。故に曙覧の歌の調子ととのはぬが多きに反して元義の歌は殆《ほとん》ど皆調子ととのひたり。されど元義の歌はその取る所の趣向材料の範囲余りに狭きに過ぎて従つて変化に乏しきは彼の大歌人たる能はざる所以《ゆえん》なり。彼にしてもし自《みずか》ら大歌人たらんとする野心あらんかその歌の発達は固《もと》より此《ここ》に止まらざりしや必せり。その歌の時に常則を脱する者あるは彼に発達し得べき材能の潜伏しありし事を証して余《あまり》あり。惜しいかな。[#地から2字上げ](二月二十六日)

 近来雑誌の表紙を模様|色摺《いろずり》となしかつ用紙を舶来紙となす事流行す。体裁上の一進歩となす。
 雑誌『目不酔草《めざましぐさ》』の表紙模様|不折《ふせつ》の意匠に成る。面白し。但《ただし》何にでも梅の花や桜の花をくつつけるは不折の癖と知るべし。
 雑誌『明星《みょうじょう》』は体裁の美麗《びれい》なる事普通雑誌中第一のものなりしが遂に廃刊せし由《よし》気の毒の至なり。今廃刊するほどならば最後の基本金募集の広告なからましかば、死際一層花を添へたらんかと思ふ。是非なし。
 雑誌『精神界』は仏教の雑誌なり。始に髑髏《どくろ》を画《えが》きてその上に精神界の三字を書す。その様何とやら物質的に開剖《かいぼう》的に心理を研究する意かと思はれて仏教らしき感起らず。髑髏の画《え》のやや精細なるにも因《よ》るならん。
 雑誌『みのむし』は伊賀より出づる俳諧の雑誌なり。表紙に芭蕪《ばしょう》の葉を画けるにその画|拙《つたな》くしてどうやら蕪《かぶら》の葉に似たるやう思はる。蕪村《ぶそん》流行のこの頃なれば芭蕉翁も蕪村化したるにやといと可笑《
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