歯を磨くにも多量の塩を用ゐ厠《かわや》用の紙さへも少からず費すが如き有様なりしかば誰も元義の寄食し居るを好まざりきといふ。
 元義は髪の結ひ方に好みありて数里の路を厭《いと》はずある髪結師のもとに通ひたりといふ。
 元義ある時刀の鞘《さや》があやまつて僧の衣に触れたりとて漆《うるし》の剥《は》ぐるまでに鞘を磨きたりといふは必ずしも潔癖のみにはあらず彼の主義としてひたぶるに仏教を嫌ひたるがためなるべし。
 元義は藤井高尚《ふじいたかなお》の門人|業合大枝《なりあいおおえ》を訪ひて、志を話さんとせしに大枝は拒みて逢はざりきといふ。
 元義には師匠なく弟子なしといふ。
 元義に万葉の講義を請ひしに元義は人丸《ひとまろ》の太子《たいし》追悼の長歌を幾度も朗詠して、歌は幾度も読めば自《おのずか》ら分るものなり、といひきといふ。
 脱藩の者は藩中に住むを許さざりしが元義は黙許の姿にて備前の田舎に住みきといふ。
 元義の足跡は山陰山陽四国の外に出でず。京にも上りし事なしといふ。
 以上事実の断片を集め見ば元義の性質と境遇とはほぼこれを知るを得べし。国学者としての元義は知らず、少くとも歌につきて箇程《かほど》の卓見を有せる元義が一人の同感者を持たざりしを思ひ、その境遇の箇程に不幸なりしを思ひ、その不平の如何に大なりしやを思ひ、その不平を漏らす所なきを思ひ、而して後に婦女に対するその熱情を思はば時に彼の狂態を演ずる者むしろ憐《あわれ》むべく悲しむべきにあらずや。[#地から2字上げ](二月二十五日)

 格堂の集録せる元義の歌を見るに短歌二百余首長歌十余首あり。この他は存否知るべからず。
 元義の筆跡を見るに和様にあらずむしろ唐様《からよう》なり。多く習ひて得たる様にはあらでただ無造作に書きなせるものから大字も小字も一様にして渋滞の処を見ず。上手にはあらねど俗気なし。
 万葉以後において歌人四人を得たり。源実朝《みなもとのさねとも》、徳川宗武《とくがわむねたけ》、井手曙覧《いであけみ》、平賀元義《ひらがもとよし》これなり。実朝と宗武は貴人に生れて共に志を伸ばす能はざりし人、曙覧と元義は固《もと》より賤《いや》しききはにていづれも世に容《い》れられざりし人なり。宗武の将軍たる能はざりしに引きかへ実朝が名のみの将軍たりしはなほ慰むるに足るとせんか、しかも遂に天年《てんねん》を全うするに至ら
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