このぬれける袖もたちまちかわきぬべう思はるれば、この新しき井の号を袖干井《そでひのい》とつけて
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濡《ぬら》しこし妹が袖干《そでひ》の井の水の涌出《わきいづ》るばかりうれしかりける
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家に婢僕《ひぼく》なく、最合井《もあいい》遠くして、雪の朝、雨の夕の小言《こごと》は我らも聞き馴《な》れたり。
「独楽※[#「口+金」、第3水準1−15−5]《どくらくぎん》」と題せる歌五十余首あり。歌としては秀逸ならねど彼の性質、生活、嗜好《しこう》などを知るには最《もっとも》便ある歌なり。その中に
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たのしみはあき米櫃《こめびつ》に米いでき今一月はよしといふ時
たのしみはまれに魚|烹《に》て児等《こら》皆がうましうましといひて食ふ時
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など貧苦の様を詠みたるもあり。
文人の貧《ひん》に処《お》るは普通のことにして、彼らがいくばくか誇張的にその貧を文字に綴《つづ》るもまた普通のことなり。しこうしてその文字の中には胸裏に蟠《わだかま》る不平の反応として厭世《えんせい》的または嘲俗《ちょうぞく》的の語句を見るもまた普通のことなり。これ貧に安んずる者に非ずして貧に悶《もだ》ゆる者。曙覧はたして貧に悶ゆる者か否か。再びこれをその歌詠に徴せん。[#地付き]〔『日本』明治三十二年三月二十三日〕
余は思う、曙覧の貧は一般文人の貧よりも更に貧にして、貧曙覧が安心の度は一般貧文人の安心よりも更に堅固なりと。けだし彼に不平なきに非《あらざ》るもその不平は国体の上における大不平にして衣食住に関する小不平に非ず。自己を保護せずしてかえって自己を棄てたる俗世俗人に対してすら、彼は時に一、二の罵詈《ばり》を加うることなきにしもあらねど、多くはこれを一笑に付し去りて必ずしも争わざるがごとし。「独楽※[#「口+金」、第3水準1−15−5]」の中に
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たのしみは木芽《このめ》※[#「さんずい+龠」、第4水準2−79−46]《にや》して大きなる饅頭《まんじゅう》を一つほほばりしとき
たのしみはつねに好める焼豆腐うまく烹《に》たてて食《くわ》せけるとき
たのしみは小豆《あずき》の飯の冷《ひえ》たるを茶|漬《づけ》てふ物になしてくふ時
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多言するを須《もち》いず、これらの歌が曙覧ならざる人の口より出《い》で得べきか否かを考えみよ。陽に清貧を楽《たのし》んで陰に不平を蓄うるかの似而非《えせ》文人が「独楽※[#「口+金」、第3水準1−15−5]」という題目の下にはたして饅頭、焼豆腐の味を思い出だすべきか。彼らは酒の池、肉の林と歌わずんば必ずや麦の飯、藜《あかざ》の羹《あつもの》と歌わん。饅頭、焼豆腐を取ってわざわざこれを三十一文字に綴《つづ》る者、曙覧の安心ありて始めてこれあるべし。あら面白の饅頭、焼豆腐や。
安心の人に誇張あるべからず、平和の詩に虚飾あるべからず。余は更に進んで曙覧に一点の誇張、虚飾なきことを証せん。似而非《えせ》文人は曰く、黄金|百万緡《ひゃくまんびん》は門前のくろ(犬)の糞のごとしと。曙覧は曰く
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たのしみは銭なくなりてわびをるに人の来《きた》りて銭くれし時
たのしみは物をかかせて善《よ》き価|惜《おし》みげもなく人のくれし時
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曙覧は欺かざるなり。彼は銭を糞の如しとは言わず、あどけなくも彼は銭を貰《もら》いし時のうれしさを歌い出だせり。なお正直にも彼は銭を多く貰いし時の思いがけなきうれしさをも白状せり。仙人のごとき仏のごとき子供のごとき神のごとき曙覧は余は理想界においてこれを見る、現実界の人間としてほとんど承認するあたわず。彼の心や無垢《むく》清浄、彼の歌や玲瓏《れいろう》透徹。
貧、かくのごとし、高、かくのごとし。一たびこれに接して畏敬の念を生じたる春岳《しゅんがく》はこれを聘《へい》せんとして侍臣《じしん》をして命《めい》を伝えしめしも曙覧は辞して応ぜざりき。文を売りて米の乏しきを歎《なげ》き、意外の報酬を得て思わず打ち笑みたる彼は、ここに至って名利を見ること門前のくろの糞のごとくなりき。臨むに諸侯の威をもってし招くに春岳の才をもってし、しこうして一曙覧をして破屋|竹笋《ちくしゅん》の間より起《た》たしむるあたわざりしもの何がゆえぞ。謙遜《けんそん》か、傲慢《ごうまん》か、はた彼の国体論は妄《みだり》に仕うるを欲せざりしか。いずれにもせよ彼は依然として饅頭焼豆腐の境涯を離れざりしなり。慶応三年の夏、始めて秩禄《ちつろく》を受くるの人となりしもわずかに二年を経て明治二年の秋(?)彼は神の国に登りぬ。曙覧が古典を究め学問に耽《ふけ》りしことは別に説くを要せず。貧苦の中
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