曙覧の歌
正岡子規

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)俊頼《としより》集

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)高雅|蒼老《そうろう》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「穴かんむり/果」、第3水準1−89−51]
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 余の初め歌を論ずる、ある人余に勧めて俊頼《としより》集、文雄《ふみお》集、曙覧《あけみ》集を見よという。それかくいうは三家の集が尋常歌集に異なるところあるをもってなり。まず源《みなもとの》俊頼の『散木弃歌集《さんぼくきかしゅう》』を見て失望す。いくらかの珍しき語を用いたるほかに何の珍しきこともあらぬなり。次に井上文雄の『調鶴《ちょうかく》集』を見てまた失望す。これも物語などにありて普通の歌に用いざる語を用いたるほかに何の珍しきこともあらぬなり。最後に橘《たちばなの》曙覧の『志濃夫廼舎《しのぶのや》歌集』を見て始めてその尋常の歌集に非ざるを知る。その歌、『古今』『新古今』の陳套《ちんとう》に堕《お》ちず真淵《まぶち》、景樹《かげき》の※[#「穴かんむり/果」、第3水準1−89−51]臼《かきゅう》に陥らず、『万葉』を学んで『万葉』を脱し、鎖事《さじ》俗事を捕え来《きた》りて縦横に馳駆《ちく》するところ、かえって高雅|蒼老《そうろう》些《さ》の俗気を帯びず。ことにその題目が風月の虚飾を貴ばずして、ただちに自己の胸臆《きょうおく》を※[#「てへん+慮」、第4水準2−13−58]《し》くもの、もって識見|高邁《こうまい》、凡俗に超越するところあるを見るに足る。しこうして世人は俊頼と文雄を知りて、曙覧の名だにこれを知らざるなり。
 曙覧の事蹟及び性行に関しては未《いま》だこれを聞くを得ず。歌集にあるところをもってこれを推すに、福井辺の人、広く古学を修め、つとに勤王の志を抱く。松平春岳《まつだいらしゅんがく》挙げて和歌の師とす、推奨|最《もっとも》つとむ。しかれども赤貧洗うがごとく常に陋屋《ろうおく》の中に住んで世と容《い》れず。古書《こしょ》堆裏《たいり》独《ひとり》破几《はき》に凭《よ》りて古《いにしえ》を稽《かんが》え道を楽《たのし》む。詠歌のごときはもとよりその専攻せしところに非ざるべきも、胸中の不平は他に漏らすの方《かた》なく、凝りて三十一字となりて現れしものなるべく、その歌が塵気《じんき》を脱して世に媚《こ》びざるはこれがためなり。彼自ら詠じて曰《いわ》く
[#ここから4字下げ]
吾《わが》歌をよろこび涙こぼすらむ鬼のなく声する夜の窓
灯火《ともしび》のもとに夜な夜な来たれ鬼|我《わが》ひめ歌の限りきかせむ
人臭き人に聞《きか》する歌ならず鬼の夜ふけて来《こ》ばつげもせむ
凡人《ただひと》の耳にはいらじ天地《あめつち》のこころを妙に洩《も》らすわがうた
[#ここで字下げ終わり]
 何らの不平ぞ。何らの気焔《きえん》ぞ。彼はこの歌に題して「戯れに」といいしといえども「戯れ」の戯れに非《あらざ》るはこれを読む者誰かこれを知らざらん。しかるをなお強いて「戯れに」と題せざるべからざるもの、その裏面には実に万斛《ばんこく》の涕涙《ているい》を湛《たた》うるを見るなり。吁《ああ》この不遇の人、不遇の歌。
 彼と春岳との関係と彼が生活の大体とは『春岳|自記《じき》』の文に詳《つまびらか》なり。その文に曰く
[#ここから6字下げ]
橘曙覧の家にいたる詞
[#ここから2字下げ]
おのれにまさりて物しれる人は高き賤《いやし》きを選ばず常に逢《あい》見て事尋ねとひ、あるは物語を聞《きか》まほしくおもふを、けふは此《この》頃にはめづらしく日影あたたかに久堅《ひさかた》の空晴渡りてのどかなれば、山川野辺のけしきこよなかるべしと巳《み》の鼓《つづみ》うつ頃より野遊《のあそび》に出たりき、三橋といふ所にいたる、中根師質《なかねもろただ》あれこそ曙覧の家なれといへるを聞て、俄《にわか》にとはむとおもひなりぬ、ちひさき板屋の浅ましげにてかこひもしめたらぬに[#「ちひさき板屋の浅ましげにてかこひもしめたらぬに」に傍点]、そこかしこはらひもせぬにや塵ひぢ山をなせり[#「そこかしこはらひもせぬにや塵ひぢ山をなせり」に傍点]、柴の門もなくおぼつかなくも家にいりぬ[#「柴の門もなくおぼつかなくも家にいりぬ」に傍点]、師質心せきたるさまして参議君の御成《おなり》ぞと大声にいへるに驚きて、うちよりししじもの膝《ひざ》折ふせながらはひいでぬ、●
すこし広き所に入りてみれば壁[#「壁」に傍点]落《おち》かかり障子はやぶれ畳はきれ雨もるばかりなれども[#「かかり障子はやぶれ畳はきれ雨もるばかりなれども」に
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