八田知紀《はつたとものり》の名歌とか申候。知紀の家集はいまだ讀まねどこれが名歌ならば大概底も見え透き候。此も前のと同じく「霞の奧は知らねども」と消極的に言ひたるが理窟に陷り申候。既に見ゆる限りはといふ上は見えぬ處は分らぬがといふ意味は其の裏に籠り居り候ものをわざ/\知らねどもとことわりたる、これが下手と申すものに候。且つ此歌の姿、見ゆる限りは櫻なりけりなどいへるも極めて拙《つたな》く野卑なり、前の千里の歌は理窟こそ惡けれ姿は遙に立ちまさり居候。序に申さんに消極的に言へば理窟になると申しゝ事いつでもしかなりといふに非ず、客觀的の景色を連想していふ場合は消極にても理窟にならず、例へば「駒とめて袖うち拂ふ影もなし」といへるが如きは客觀の景色を連想したる迄にて斯くいはねば感情を現す能はざる者なれば無論理窟にては無之候。又全體が理窟めきたる歌あり(釋教の歌の類)これらは却て言ひ樣にて多少の趣味を添ふべけれど、此芳野山の歌の如く全體が客觀的即ち景色なるに其中に主觀的理窟の句がまじりては殺風景いはん方無く候。又同人の歌にかありけん
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うつせみの我世の限り見るべきは
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