第五句字余り故に面白く候。或《ある》人は字余りとは余儀なくする者と心得候へども、さにあらず、字余りには凡《およそ》三種あり、第一、字余りにしたるがために面白き者、第二、字余りにしたるがため悪《あし》き者、第三、字余りにするともせずとも可なる者と相分れ申候。その中にもこの歌は字余りにしたるがため面白き者に有之候。もし「思ふ」といふをつめて「もふ」など吟じ候はんには興味|索然《さくぜん》と致し候。ここは必ず八字に読むべきにて候。またこの歌の最後の句にのみ力を入れて「親の子を思ふ」とつめしは情の切なるを現す者にて、もし「親の」の語を第四句に入れ、最後の句を「子を思ふかな」「子や思ふらん」など致し候はば、例のやさしき調となりて切なる情は現れ不申、従つて平凡なる歌と相成可申候。歌よみは古来助辞を濫用《らんよう》致し候様、宋人の虚字を用ゐて弱き詩を作ると一般に御座候。実朝の如きは実に千古の一人と存候。
前日来生は客観詩をのみ取る者と誤解被致候ひしも、そのしからざるは右の例にて相分り可申、那須の歌は純客観、後の二首は純主観にて、共に愛誦《あいしょう》する所に有之候。しかしこの三首ばかりにては、強き方に偏しをり候へば、あるいはまた強き歌をのみ好むかと被考《かんがえられ》候はん。なほ多少の例歌を挙ぐるを御待可被下《おまちくださるべく》候。
[#地から2字上げ](明治三十一年三月一日)
[#改ページ]
九《ここの》たび歌よみに与ふる書
一々に論ぜんもうるさければただ二、三首を挙げ置きて『金槐集』以外に遷《うつ》り候べく候。
[#ここから2字下げ]
山は裂け海はあせなん世なりとも君にふた心われあらめやも
箱根路をわが越え来れば伊豆《いず》の海やおきの小島に波のよる見ゆ
世の中はつねにもがもななぎさ漕ぐ海人《あま》の小舟《おぶね》の綱手かなしも
大海《おおうみ》のいそもとどろによする波われてくだけてさけて散るかも
[#ここで字下げ終わり]
箱根路の歌極めて面白けれども、かかる想は古今に通じたる想なれば、実朝がこれを作りたりとて驚くにも足らず、ただ「世の中は」の歌の如く、古意古調なる者が万葉以後において、しかも華麗を競ふたる新古今時代において作られたる技倆《ぎりょう》には、驚かざるを得ざる訳にて、実朝の造詣《ぞうけい》の深き今更申すも愚かに御座候。大海の歌実朝の
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