歌よみに与ふる書
正岡子規
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)仰《おおせ》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)万葉以来|実朝《さねとも》以来
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)益※[#二の字点、1−2−22]
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歌よみに与ふる書
仰《おおせ》の如《ごと》く近来和歌は一向に振ひ不申《もうさず》候。正直に申し候へば万葉以来|実朝《さねとも》以来一向に振ひ不申候。実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活《い》かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と存《ぞんじ》候。強《あなが》ち人丸《ひとまろ》・赤人《あかひと》の余唾《よだ》を舐《ねぶ》るでもなく、固《もと》より貫之《つらゆき》・定家《ていか》の糟粕《そうはく》をしやぶるでもなく、自己の本領|屹然《きつぜん》として山岳《さんがく》と高きを争ひ日月と光を競ふ処、実に畏《おそ》るべく尊むべく、覚えず膝《ひざ》を屈するの思ひ有之《これあり》候。古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤《あやまり》なるべく、北条氏を憚《はばか》りて韜晦《とうかい》せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例なれども、実朝は全く例外の人に相違|無之《これなく》候。何故と申すに実朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚《こ》びざる処、例の物数奇《ものずき》連中や死に歌よみの公卿《くげ》たちととても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは、実朝の歌の如き力ある歌は詠《よ》みいでられまじく候。真淵《まぶち》は力を極めて実朝をほめた人なれども、真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存候。真淵は実朝の歌の妙味の半面を知りて、他の半面を知らざりし故に可有之《これあるべく》候。
真淵は歌につきては近世の達見家にて、万葉崇拝のところ抔《など》当時にありて実にえらいものに有之候へども、生《せい》らの眼より見ればなほ万葉をも褒《ほ》め足らぬ心地《ここち》致《いたし》
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