た。アリスが溺死《できし》したとみると、ブラドンはそっと部屋へ帰って、買ってあった鶏卵を六個その商店の紙袋に入れたたまま抱えてたれにも見られないように表玄関からコッカア街の通りへ出た。
その時、浴室の真下の台所でクロスレイ夫人を中心に食事をしていた連中は、天井から湯が洩《も》って、壁を伝わって流れ落ちてくるので、大騒ぎになっていた。ブラドン夫人が湯の栓を出しっ放しにして、浴槽から溢《あふ》れ出ているに相違ない。夫人に注意しようというので、口々に大声に呼ばわっているところへ、裏口の戸を開けて、ブラドンが台所へはいって来た。彼は、翌日の朝飯の用意に、いま買って来たところだといって、抱えている商店の紙ぶくろから鶏卵を六個出して見せたりした。いそいで歩いて来たとみえて、赤い顔をして、呼吸を弾《はず》ませていた。そして、鶏卵の値がさがったなどと無駄話をはじめたが、二階の浴室から湯が滴《したた》り落ちて一同が立ち騒いでいるので、彼は急いで二階へ駈け上りながら、階段の中途から大声に叫んだ。
「アリス、お湯がこぼれてるじゃないか。」
ブラドンはちょっと部屋を覗《のぞ》いてから、浴室へはいって行ったかと思うと、すぐ飛び出して来て、ブラドン夫人が浴槽に「死んだように」なっているから、至急ビリング医師を呼んでくれるようにと、階段の上から喚《わめ》いた。医者はすぐ来た。クロスレイ夫人の案内で浴室へはいって行くと、ブラドンが浴槽内の妻の身体を凝視《みつ》めて放心したように立っていた。ブラドン夫人は顔の半分を湯の中に漬《つ》けたまま、片手と片脚を浴槽の縁にかけて、ちょうど湯から出ようとして※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36、143−17]《もが》いている姿勢で死んでいた。よほど苦しんだとみえて、夫人は、湯の中で解《と》かれた頭髪を口中いっぱいに飲み込んでしっかり噛《か》んでいた。ビリング医師が一瞥《いちべつ》して施《ほどこ》すべき策のないことをブラドンに告げると、彼は医師に取り縋《すが》って、何度も繰り返した。
「先生、ほんとに駄目でしょうか。なんとかならないでしょうか。」
ビリング医師は威厳をもって答えた。
「お気の毒ですが、手遅れです。こういうことのないように、あれほど御注意申し上げておきました。」
鶏卵を買いに出たという現場不在証明《アリバイ》と、この愁嘆場《しゅうたん
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