ドンを、看過《かんか》することはできなかったのだ。ブラドンが下宿を出る時、クロスレイ夫人が面とむかって痛罵《つうば》すると、彼は平然として答えた。
「死んだやつは、死んだやつさ。」
 この When they're dead they're dead という、アウネスト・ブラドンことジョウジ・ジョセフ・スミスの言葉は、彼ならびに彼と同型の常習殺人犯の、病的に冷酷な心状を説明する最適の言辞として、いまだに、犯罪研究者の間に記憶されている有名なものである。じつにジョウジ・ジョセフ・スミスは、「一杯の葡萄《ぶどう》酒を傾けるような」日常的な気易さをもって、つぎつぎに花嫁として彼の前に現われる女を殺しまわったのだ。そして一人殺すごとに、彼は内心|呟《つぶや》いたに相違ない。「死んだやつは、死んだやつさ」と。この種の犯罪者は、常にこの徹底した利己観念のうえに立っていて、そのうえ自己の犯罪能力と隠蔽《いんぺい》の技巧を信ずることすこぶる厚いのを特徴とする。したがって殺した方が目的に適《かな》う場合には、みずからを逡巡《しゅんじゅん》や反省なしに平気で殺人を敢行《かんこう》するのである。そして、that's that として、すぐに忘れる。ブラドン本名スミスの言った When they're dead they're dead の一言は、この意味で、その間の心理的消息を説明してあますところない。実際このスミスは、多殺者列伝の中でも第一位に推《お》されるべき傑物《けつぶつ》だ。その細心いたらざるなき注意と、事件にあたってまず周囲の人を完全に欺《だま》す俳優的技能とは、まさに前古|未曽有《みぞう》のものといわれている。また彼は、犯罪史に、一つの秘密な「家庭的」殺人方法を加えた発明家でもあった。それがここにいう「浴槽の花嫁」なる天才的な独創である。長く気づかれずにすぎたのだった。
 性的動機よりも、スミスの女殺しはむしろ稼業《ビジネス》として金銭が目的だった。この点いっそう彼をして冷血動物の感あらしめるが、女殺しといえば、このスミスこそ真の女殺しであろう。
 アウネスト・ブラドンと変名したジョウジ・ジョセフ・スミスと、看護婦アリス・バアナムとが知りあいになったのは、英国南部の海岸町アストン・クリントンだった。バアナム家は、そうとう手広くやっている石炭屋で、父母と、アリスのほか五人の兄弟姉妹
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