いまさらのようにドイツ密偵部員の潜略《せんりゃく》に驚いて、エッフェル塔の無電に絶えず高力の電波を放ってすこしでも怪しい暗号電報の妨害を試みる。同時に、フランス特務機関の暗合が一時に変改された。マタ・アリはドイツのスパイなどとは夢にもおぼえがないと無罪を主張し続けたが、まもなく、一九一六年七月二十五日、射殺の判決がくだる。各方面からの命|乞《ご》いは猛烈をきわめたもので、本人はすっかりその効果を信じているから、聖《サン》ラザアルの刑務所で悠々閑々《ゆうゆうかんかん》、あの嘘八百の告白体自伝はここで書いたのだ。

 三人の尼僧が付ききりでしきりに神を説《と》き懺悔《ざんげ》を奨《すす》める。マタ・アリはせせら笑って耳を籍《か》そうともしない。それは処刑の朝、八月十一日午前五時だった。
 マリイ尼という一人が独房の前に立って、
「あなたは今まで人のために踊ってきましたわね。今朝《けさ》は一つ御自分のために踊ってはいかがです。」
 ここにおいてマタ・アリは、黒衣の尼僧の前で例のでたらめの東洋踊りをやっている。どうもちょっと滑稽《こっけい》な、憎めない存在だった。
 舞踊なかばにして、重い靴音
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