んでいる。いざという場合にこの恋文を出して助命運動をするつもり、それで保存しておいたのだが、そのいざという場合のいま、彼女はそれを焼こうとした。しかも、あくまで相手の名を明かそうとしない。淋《さび》しい男性は、時として途上に出会《でっくわ》した売春婦に大きな秘密を打ち明けるものだ。時としてまた、そういう女たちは、身をもって男の秘密を守ろうとする。この、マタ・アリが最後に示した一片の意気は、売春婦のそれにも似て、哀れに壮烈だといえる。
 投獄されたのは、聖《サン》ラザアル刑務所だった。

 マタ・アリは軍事裁判に付された。その評判は欧州はもちろん、全世界の新聞に喧伝《けんでん》されているから、記憶している読者もあろう。秘密裁判だった。密偵部第二号の選択によって、報《しら》せていいことだけ公表されているにすぎない。彼女の記録は、ベルリン・ドロテイン街の家、ヘンダスン少佐との出会いの当時まで溯《さかのぼ》って、そのころから英仏にとってそういう意味での要視察人だったと判明している。欧州戦争が十年、二十年以前から予期されて、各国とも軍備とスパイ戦に忙しかったことがこれでも知れよう。

 パリーは
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