が刑務所の石廊を近づいてきた。こういう場合、死刑囚を急激に愕《おどろ》かせないために、覚悟を教えて、わざと遠くから跫音《あしおと》を立てて来るのだ。マタ・アリは、夜会にでも出席するように美装を凝《こ》らして人々を驚倒させた。
 にこにこして刑場に引き出されて行く。

 数多い「恋人」の一人でもっとも熱烈な彼女の讃美者ピエル・ドュ・モルテサックが、ひそかにマタ・アリに吹き込んだのだという。
「軍規の手前、銃殺しなければならないことになっているのだから、法を曲げるわけにはゆかない。で、形式的に処刑するのです。つくり狂言です。銃殺に使用する弾は空弾だから、音がするだけで、なんともない。あとから屍《し》骸ということにして国境外へ運び出す手筈《てはず》になっている。」
 一時慰めようという慈悲心からか、それとも意地の悪い意味からか、それは観方《みかた》一つだが、とにかくこういうことをささやかれて、マタ・アリはそれを信じきっていた。だから、刑場に出るものとは思われない華やかな態度で、ヴァンサンヌの城壁の前に立つ。一隊の竜騎兵《ドラグウン》が銃を擬して待っていた。芝居とばかり思い込んでいるマタ・アリ
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