あして停車場の雑沓《ざっとう》の中で別れの握手をして、それきりというのは、どうも面白くない。なんとか、いろんな理窟《りくつ》で自己納得の後、ホテルに鞄《かばん》をおろしたメリコフである。まもなく、この三十二歳の白系韃靼《はっけいだったん》人、ギリシャ正教徒《せいきょうと》、前|近衛《このえ》中隊長、迷信家で狂信家で感激性に富み、騎士的で勇敢で買収の見込みのない人別書《デスクリプション》は、ドロテイン街の家の玄関に立って、にこにこ笑っていた。でかけてみると、おどろいたことには[#「おどろいたことには」は底本では「おどいたことには」]、美しいフォン・リンデン伯爵夫人が泣かんばかりの顔をしているのだ。ストュットガルト市の親戚に急病人ができて、良人《おっと》伯爵はたったいまその地へ急行したと言う。電報を見せて言うのだから、騎士マリコフはすっかり真《ま》に受けた。主人の留守ちゅうであるが、そのまま帰るわけにもゆかないので、ゆっくりあがって遊んでいくことになった。やがて晩餐《ばんさん》が出る。卓上には、美味と佳酒《かしゅ》と伯爵夫人の愛嬌《あいきょう》とがある。葡萄《ぶどう》酒と火酒《ウォッカ》だ
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