立ち寄りくださいまし。」紋章入りの華奢《きゃしゃ》な名刺を渡して、「主人もゆっくりお目にかかって、お礼を申し上げることでございましょうから。」
晩餐《ばんさん》の招待だ。淑《しと》やかな女である。ことにさかんに主人が主人がと言うから、良人《おっと》があるならとメリコフは安心した。が、ぜひ訪問すると約束したわけではない。
その列車には、フォン・リンデン伯爵夫人のほかに、もう一人のドイツ密偵部員が、先に乗り込んで、メリコフを見張ってきていた。不親切な車掌がそれだ。ちゃんと手筈《てはず》ができていた。口論は八百長《やおちょう》だったのである。
もちろんパリー直行の予定だ。ベルリンで乗換えがある。この、ベルリンで乗換えの汽車を待っている間に、メリコフは、いま一緒に降車して別れたばかりの若い伯爵夫人のことを思い出した。ぜひ訪問すると約束したわけではない。しかし、ベルリンには一泊して行ってもいいのだ。それに、先方には良人《おっと》もいるし、身分のある人だから、訪ねて行ったところで、たいして間違いのあるはずはない。もうそんな魅惑《みわく》を、夫人はメリコフの上に残していっていた。美しい女だ。あ
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