い。
 原訳二通の条約草稿を茶色の革袋へ密封して、特別仕かけの錠をおろす。腕っこきの特務員が、大きな眼を開けて、片時も放さず袋を握っていくのだ。万善《ばんぜん》を期するため、たがいに識《し》らない密偵部員が二人、めいめい自分だけと思って、見え隠れについていく。郵便夫の男も、二人の顔を知らないのだから、スパイがスパイを尾《つ》けている形で、二重三重の固めだった。実際、この時分のドイツには、密偵密偵機関《カウンタ・エスピイネイチ・グランチ》といって、もっとも鋭い、老練家のスパイが選ばれて、しじゅうスパイをスパイして警戒眼を放さない制度になっていた。スパイをやるくらいの奴だからいつ寝返りを打たないともかぎらないというので、皮肉な話だ。そこで、スパイをスパイするスパイだけではまだ不安だとあって、そのスパイをスパイするスパイ、つまり、初めからいうと、スパイをスパイするスパイをスパイするスパイを置いて、そのまた上に、スパイをスパイするスパイ――とにかく識《し》らない同士の三人旅である。途中なにごともなくアフガニスタンへ着いて、密書入りの革袋は、ただちにドイツ領事館内の金庫へ保管される。領事館で初め
前へ 次へ
全68ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧 逸馬 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング