アバス・ヌリ殿下が、予定を変更して、急拠《きゅうきょ》パリーへ引っ返したのである。
 大戦当時のフランスの密偵局に、ドイツのスパイ団をむこうにまわして智慧競《ちえくら》べを演じ、さんざん悩ました辣腕《らつわん》家に「第二号」と称する覆面《ふくめん》の士のあったことはあまりに有名だ。それがだれであったかは、当時もいまもよくわかっていないが、アバス・ヌリ殿下の行動に危険を看取《かんしゅ》してにわかに呼び返したのは、この「第二号」だったと言われている。また殿下自身、じつはフランス密偵部の同志で、自発的にああしてドロテイン街の家を探検したのだという、穿《うが》ったような説もある。あのロシアの外交郵便夫ルオフ・メリコフ事件をはじめ、この邸《やしき》で奇怪な出来事が連発してきたので、すくなくとも仏露両国のスパイは、とうからこのベルリン・ドロテイン街の大邸宅とその美しい女主人、伯爵のいない伯爵夫人フォン・リンデンとに眼をつけていたのだ。
 このことがあってからまもなく、ドロテイン街の家は急に閉鎖された。これからのマタ・アリは、縦横に国境を出入して諸国に放浪する、スパイらしいスパイである。
 ほんとに
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