《こ》めて、じっとその様子を眺めている。
 相談一決、第二号がマタ・アリに向きなおってにっこりした。
「それじゃマダム、貴女の嫌疑は嫌疑として、今回だけ、貴女がフランスに忠実であるということを証拠立てえる機会を作ってあげましょう。われわれの同志として、いまからあらためて貴女をフランス特務機関に編入します。ベルギーのほうを遣《や》ってもらいたいのです。彼地を占領しているドイツ軍の部内に、こっちから三十人のスパイを入り込ませてありますから、いまその名簿をあげます。みなそうとうに働いてくれているんですが、このごろ敵の妨害スパイの活動が激しくて、どうも報告が集まらないで弱っている。貴女の任務は、その三十名の情報をまとめて身をもってパリーの私の所へ持って来ることです。」
 安堵《あんど》の溜息と一緒に、マタ・アリは答える。
「承知致しました。」
 あらゆる便宜の下に出発して、英仏海峡を渡った。仏白《ふつはく》の国境は、独軍におさえられているので、海路英国から潜入しようとしたのだ。ところが、オランダにいる娘が急病だから行かなければならないというマタ・アリの声明を、英国政府が取りあげなかった。オランダへもベルギーへも遣《や》らずに、|ロンドン警視庁《スコットランド・ヤアド》特高《とっこう》課長ベイジル・タムスン卿の手で、胡散臭《うさんくさ》いやつだというので、フォルマス港からこっそりとんでもないスペインへ追放してしまう。マタ・アリもいまは盟友国であるフランスのスパイなのだから、イギリスも便利と庇護《ひご》を計ってしかるべきだが、これは、フランスからあらかじめ依頼があって、ちゃんと手筈《てはず》ができていたので、すべてはフランス密偵部第二号の画策《かくさく》だったのである。退《の》っ引《ぴ》きならぬ証拠を作ろうとしたのだ。あとでわかる。

        7

 ベルギーにおけるドイツの占領地帯にはいり込んでいたフランス密偵部員の一人に、イグナチオ・ヴィテリオというイタリー人があった。最初に、この男の動静がくさいと気がついたのがパリーの第二号、洩《も》れるべきはずのないことが、立派に洩れている。どうも変だ。それとなく眼を付けているとこのイグナチオ・ヴィテリオは、密偵仲間でいういわゆる「二重取引《エイジェント・ダブル》」というやつをやっていることが判明した。独軍にはドイツのスパイ、仏軍にはフランスのスパイ、二つの面を被《かぶ》って、おのおの両方に忠実なスパイを装《よそお》い、右から左、左から右へ情報を提供する。間に立って、ひとりたんまり儲《もう》けていた。これではたまらない。なにもかも筒抜けだ。が、どっちにとっても、忠実なスパイには相違なかった。両方から報酬をもらう。金になるから、自然おおいに活動して、どっちにも重宝《ちょうほう》がられてきた。右の手のすることを左の手は知らないというわけ、抜け目のないやつだった。このイグナチオ・ヴィテリオの双面《ダブル》を感づいた第二号である。
 こいつを処罰するためと、もう一つはマタ・アリの正体を暴露する動かぬ材料を獲《え》るためと、一石二鳥、やはりアルセエヌ・ルパンばりに洒落《しゃれ》っ気たっぷりのパリー人だ。皮肉な方法を考えたのだ。

 これはマタ・アリ、ベルギー行きが許可されなくて、スペインなんかと変なところへ送られたものの、第二号が予期したとおり、パリー出発に際して彼女に手交した在白フランススパイの名簿は、そっくりその地のドイツ密偵部員に内報されている。マタ・アリはああして今度フランスのためにスパイを働くような態《ふり》をしながら、じつはあれは一時逃れで、初めから名簿を持ってベルギーへ入国したら、さっそくそれをドイツ密偵部へ呈示して、片っ端から芋蔓《いもづる》的に処分し、その三十人のフランススパイ団を一掃しようという肚《はら》だったのだ。が、イギリスの邪魔《じゃま》で、自分が行けなくなったから、せめて三十人の住所氏名だけはとりあえず密報した次第、受け取った在白ドイツ密偵部は、勇躍した。捜索する必要もないのだ。三十人の所番地を襲って、もちろん射殺するだけ。それっというので、それぞれ手わけしてでかける。
 手わけして逮捕にむかったまではいいが、引き出して来たのは一人きりで、ほかの二十九名はどうしてもわからない。これはわからないわけだ。捕縛《ほばく》された一人を抜かして、ほかの二十九人は全部、第二号の創作になる仮想的人物、初めから存在しないのだった。
 捕まったのは、名簿のいの一番にあったイタリー人イグナチオ・ヴィテリオである。おや、これはわれわれの同志のはずだがと、一同は首を捻《ひね》ってみたが、ドイツ側も、大事なことがさかんに内通される形跡を感じて、よりより探査の歩を進めていた際だ。フランスのスパイとし
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