戦雲を駆る女怪
牧逸馬
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)露独《ろどく》連絡の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)赤|瓦《かわら》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《そう》話
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1
露独《ろどく》連絡の国際列車は、ポーランドの原野を突っ切って、一路ベルリンを指して急ぎつつある。
一九一一年の初夏のことで、ロシアの国境を後にあの辺へさしかかると、車窓の両側に広大な緑色の絨毯《じゅうたん》が展開される。風は草木の香を吹き込んで快《こころよ》い。一等の車室《ワゴンリ》を借りきってモスコーからパリーへ急行しつつある若いロシア人ルオフ・メリコフは、その植物のにおいに鼻孔《びこう》を擽《くすぐ》られながら、窓の外に眼をやると、そこには、いままでの荒涼たる景色のかわりに、手入れのゆきとどいた耕地がある。白揚《はくよう》の並木と赤|瓦《かわら》の農家がある。西欧の天地だ。メリコフは汽車の速力を享楽してうっとりしている。
ポウゼン駅にちょっと停車して動き出すとまもなく、車室の外の廊下に男女の争う声がするので、メリコフは覗《のぞ》いて見た。車掌が、ポウゼンから乗って来たらしい二十五、六の上品な服装の婦人を、なにか口汚く罵《ののし》っている。その婦人もなかなか負けていない。なにか切符に手違いがあって、予約してあるはずの車室が取ってないというのだ。貴族階級の甘やかされている婦人に特有の口調で、女は猛烈に車掌に食ってかかっている。
「切符はいまポウゼンで買ったばかりですけれど、三時間も前に、二つ三つむこうの停車場に止まっていたこの列車に駅から電話をかけさせて車室を申し込んであるのよ。ほら、ちゃんとこう列車番号から車室の番号まで書いてあるじゃないの。」
「そんなこと言ったって、満員だから仕方がありませんよ。」
「仕方がありませんて、どうするつもり? あたしをここへ立たしとくつもり? ずいぶん馬鹿にしてるわ。」
「冗談じゃない。そんなところに立っていられちゃ邪魔《じゃま》でさ。つぎの駅で降りてもらおう。」
「なんですって?」
「なにがなんだ。つぎの駅で降りろと言うんだ。」
「なんて失礼なやつでしょう。名前をおっしゃい。申告してやるから。」
というようなことから始まって、車掌は職権をかさに呶鳴《どな》りたてる。女はここぞとばかりヒステリカルに泣き出す。大変な騒ぎだから、メリコフも黙っていられない。車掌の言い草もかなり横暴なので、スラヴ族は多血質だ。むかっ[#「むかっ」に傍点]として、頼まれもしないのに、女の助太刀《すけだち》に飛び出して行く。
「車掌君、君は婦人客にたいして物の言いかたを知らない。不親切きわまる。切符の手違いとわかったら、できないまでも、いちおう車室の融通《ゆうずう》を考えてみるのが至当じゃないか――まあま、貴女もそう泣くことはないでしょう。」
女を庇《かば》って、車掌を白眼《にら》みつけている。
ベルリン・ドロテイン街に住むドイツ政府直属の女国事探偵フォン・リンデン伯爵夫人は、四日前に外務当局から一通の命令を手交された。
四日後の今日、露独連絡の国際列車によってロシア外務省からパリー駐在のロシア大使の許《もと》へ重要秘密書類を運ぶ一人の外交郵便夫が通過する。この外交郵便夫というのは、郵送できない外交上の重要物件を身に付けてもっていく。まあ、早飛脚《はやびきゃく》みたいなもので、どこの国でも、必要におうじてやっている。暗号は頻繁《ひんぱん》に切り換えることになっているが、その新しい鍵語《キイ》などはとても書留やなんかでは送れないから、そこでこの外交郵便夫というのが選ばれて、身をもって逓送《ていそう》の任に当る。常備のわけではない。たいがい、書記生どころの若い外交官を出すことになっている。
ところで、女密偵フォン・リンデン伯爵夫人が受け取ったドイツ外務省の通牒《つうちょう》である。ロシアの一外交郵便夫が、ニコライ・ロマノフの宮廷からパリーの大使館へ宛《あ》てた密書を帯びてドイツを通過するとある。それにたいするスパイの役目は、不言不語の裡《うち》にわかっている。フォン・リンデン伯爵夫人は、ちゃんと心得ていた。
その時、密偵部の首脳が、細かい区分けになっている書棚から一通抜き取って、黙って夫人に渡したという「|文字の肖像画《デスクリプション》」を見ると、
ルオフ・メリコフ――三十二歳、白系韃靼人《はくけいだったんじん》。ギリシャ正教徒《せいきょうと》。前|近衛《このえ》中隊長。
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