英《えい》独《どく》仏《ふつ》伊《い》西《せい》の各国語に通じ、少しくビルマ語をも解す。兄はビルマ在住の貿易商。メリコフは反|独《どく》主義者として知られる。また英米をも嫌悪す。性格は迷信的にして、自家の宗教、主義、主張などに関しては、絶大なる狂信者なり。感激性に富み、女色を好む。騎士的。勇敢。買収の見込みなし。ドイツ人の仕事だけに、微に入り[#「微に入り」は底本では「徴に入り」]細を穿《うが》って調べてある。その外交郵便夫の人物に関して、これだけ予備知識があれば、十分だ。ずんと呑《の》み込んだフォン・リンデン伯爵夫人は、すっかり「甘やかされた奥様の役」に扮《ふん》して、途中のポウゼン駅から乗り込む。
まあまあ、というようなことで、留《と》め男に割り込んで来たのが強そうな紳士だから、車掌は急に降参して、その場はそれですんでしまう。メリコフの扱いで、やっと車室の都合《つごう》がつく。フォン・リンデン伯爵夫人は、地獄で仏に――西洋のことだから神様だが――その神様に会ったように喜んでいる。悦《よろこ》びのあまり、こんなことを言った。
「どうぞベルリンでお暇がございましたら、ちょっとでもお立ち寄りくださいまし。」紋章入りの華奢《きゃしゃ》な名刺を渡して、「主人もゆっくりお目にかかって、お礼を申し上げることでございましょうから。」
晩餐《ばんさん》の招待だ。淑《しと》やかな女である。ことにさかんに主人が主人がと言うから、良人《おっと》があるならとメリコフは安心した。が、ぜひ訪問すると約束したわけではない。
その列車には、フォン・リンデン伯爵夫人のほかに、もう一人のドイツ密偵部員が、先に乗り込んで、メリコフを見張ってきていた。不親切な車掌がそれだ。ちゃんと手筈《てはず》ができていた。口論は八百長《やおちょう》だったのである。
もちろんパリー直行の予定だ。ベルリンで乗換えがある。この、ベルリンで乗換えの汽車を待っている間に、メリコフは、いま一緒に降車して別れたばかりの若い伯爵夫人のことを思い出した。ぜひ訪問すると約束したわけではない。しかし、ベルリンには一泊して行ってもいいのだ。それに、先方には良人《おっと》もいるし、身分のある人だから、訪ねて行ったところで、たいして間違いのあるはずはない。もうそんな魅惑《みわく》を、夫人はメリコフの上に残していっていた。美しい女だ。ああして停車場の雑沓《ざっとう》の中で別れの握手をして、それきりというのは、どうも面白くない。なんとか、いろんな理窟《りくつ》で自己納得の後、ホテルに鞄《かばん》をおろしたメリコフである。まもなく、この三十二歳の白系韃靼《はっけいだったん》人、ギリシャ正教徒《せいきょうと》、前|近衛《このえ》中隊長、迷信家で狂信家で感激性に富み、騎士的で勇敢で買収の見込みのない人別書《デスクリプション》は、ドロテイン街の家の玄関に立って、にこにこ笑っていた。でかけてみると、おどろいたことには[#「おどろいたことには」は底本では「おどいたことには」]、美しいフォン・リンデン伯爵夫人が泣かんばかりの顔をしているのだ。ストュットガルト市の親戚に急病人ができて、良人《おっと》伯爵はたったいまその地へ急行したと言う。電報を見せて言うのだから、騎士マリコフはすっかり真《ま》に受けた。主人の留守ちゅうであるが、そのまま帰るわけにもゆかないので、ゆっくりあがって遊んでいくことになった。やがて晩餐《ばんさん》が出る。卓上には、美味と佳酒《かしゅ》と伯爵夫人の愛嬌《あいきょう》とがある。葡萄《ぶどう》酒と火酒《ウォッカ》だ。大いに飲んだ。あのデスクリプションには一つたらないところがあった。この前近衛中隊長殿は猛烈な酒豪だ。「魚が水を飲むごとく酒を呑《の》む」という一項を挿入《そうにゅう》する必要があるとフォン・リンデン伯爵夫人は思った。なかなか酔わないのだ。心《しん》がしゃん[#「しゃん」に傍点]としていて、ときどき思い出したように、そっと片手をテーブルの下へ遣《や》って短衣《チョッキ》の上から腹部のあたりを押してみたり、撫《な》でてみたりしている。あそこに秘密の腹帯《ベルト》をしているのだな、と夫人はこっちからさり気なく白眼《にら》みをつけている。
いっそう酔い潰《つぶ》しにかかった。
いっそう酔い潰しにかかったが、いっこうにきき目が現われない。仕方がない。こいつを床へ送るためにはもっと強い飲物が必要である。フォン・リンデン伯爵夫人と、給仕に出ていた執事《しつじ》との間に素早い眼配《めくば》せが交された。つぎに運ばれてきた火酒《ウォッカ》の壜《びん》からは、相手にだけ奨《すす》めて、自分は飲む態《ふり》に止めておくように、夫人は、眼立たないように注意した。三十分もすると、ギリシャ正教徒の生ける屍
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