てただ一人イグナチオ・ヴィテリオが指名されて来たのだから、さてはと種々思いあたる節《ふし》もある。猶予《ゆうよ》はない。この皮肉な第二号の贈物を遠慮なく受け取ることにした。名簿がベルギーへ達した一時間後にイグナチオ・ヴィテリオは、兵列の前に立って一斉射撃で処理されていた。
二日後に、この報知がパリーへはいって、第二号をにっこり微笑《ほほえ》ませている。
沙漠のような高原にぽっちり建っている太陽の都マドリッド。そこのグランド・ホテルではマタ・アリの隣室に、英国の若い帰休士官が英雄|閑日月《かんじつげつ》を気取っている。名をスタンレイ・ランドルフ。砲兵大尉。H21がマドリッドへ着いてまもなく、クルウプ博士という土地在住のドイツ密偵支部代表者が訊《たず》ねて来て、こんな話をしてゆく。
最近、英国の田舎ミッドル・エセックス州の奥に、周囲に高さ二十フィートの石垣をめぐらした公園|様《よう》の広場ができた。疑問は、その不自然に高い石の垣である。内部には、よほど秘密なことが行われているに相違ないが、さてなんだろうというのが、その地方のドイツスパイ間の問題になった。やっと探りえた程度では、中に、近代の戦場の模型が作ってあるというのだ。実際の戦線を一部切り離してきたように、塹壕《ざんごう》、鉄条網、砲丸の穿《うが》った大地穴、機関銃|隠蔽《いんぺい》地物、その他、小丘、立樹、河沼、小独立家屋など、実物どおりにそっくりできあがっている。おまけに、塀の中からは、ひっきりなしに、強力なガソリン発動機《エンジン》の爆音が聞えてくる。近所の噂《うわさ》によると、蛾虫《さなぎ》のような奇妙な形をした新型|牽引車《けんいんしゃ》の試験をしているらしいという。なんでも、前線へ給水、補弾等の目的を達する装甲《そうこう》輸送車であると同時に、あらゆる地形、障害物を無視し、蹂躪《じゅうりん》して進む戦闘車の役割をもつとめるとのこと。英軍部内の関係者がタンクという写実的な名称で呼んでいる、同国陸軍が新たに発明した武器だというのだ。そこで、グランド・ホテルに隣りあわせて泊っているスタンレイ・ランドルフ大尉に探りを入れてみる。砲兵士官だから、なにかこの怪車タンクについて知っているに相違ない。こういう命令がマタ・アリに与えられた。相手は、いちじ戦争から帰ってぶらぶらしている青年将校である。こんなのこそは、マタ・アリの専門とするところ。わけはない。数日のうちに成功して、聞き出せるだけ聞き出してしまう。が、マドリッドに光っている特務機関の眼が、ドイツばかりではない。イギリスのスパイが、ランドルフ大尉の様子に秘密の流出する不安を感じて、急ぎ上司へ通告して指揮を仰ぐ。大尉はにわかにマドリッドを退去してパリーへ北上すべしという厳命を受け取った。するとマタ・アリも、ランドルフと一緒にパリーへ行かなければならないことになったが、第二号に捕まってあんな目に遭《あ》ったばかりだから、パリーはマタ・アリの鬼門《きもん》である。ああいう経験は一度でたくさんだ。ここで、彼女は初めて駄々をこねてみたけれど、もちろんいやだと言って許されることではない。保証と脅迫に押し出されるようにしぶしぶマドリッドをあとにパリーへ向う。脅迫は密偵部の常套《じょうとう》手段、命令に服従しなければ、同志が手をまわしてその地の官憲へ売り込む。四面|楚歌《そか》のドイツのスパイだから、たちまち闇黒《やみ》の中で処分されてしまうという段取りで、一度密偵団の上長《じょうちょう》に白眼《にら》まれたが最後、どこにいても危険は同じことだ。それはマタ・アリもよく知っているし、スパイ網から脱落しようと※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いて、どこへ逃亡しても、常に正確に、不可解にして残酷な死を遂げた多くの細胞の例をも彼女は熟知している。仕方がない。パリーへ帰っていく。
もっとも、密偵部から強要されたからばかりではない。政府筋の有力な連中の多いパリーの彼女の騎士たちからも、さかんに帰巴《きは》するようにと勧めてきている。そのもっとも熱心な一人が、例の某閣僚だから、こういう保護があれば大丈夫だろうとも考えた。いままでの話でもわかるとおり、善《よ》くいえば勇猛果敢《ゆうもうかかん》、悪くいえば変質者に近いほど怖いもの知らずのマタ・アリである。好運を信じて、一度難を逃れた獅子《しし》の檻《おり》へまたはいり込んだのだが、今度は、生きては出なかった。
金に困ったことはない。困らないどころか、その頃のマタ・アリの生活は豪奢《ごうしゃ》の頂点で、この旅行も贅沢《ぜいたく》をきわめたものだった。マドリッドのドイツ大使館から、オランダのドイツ大使の許《もと》へ、マタ・アリがパリーへ着いたら、同市のオランダ大使館をつうじて、
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