いている。ヴィテルの尼僧《にそう》病院に収容されることになって、マタ・アリもパリーから行っているが、それは、恋半分、使命半分の動機からだった。ヴィテルは、フランス陸軍の重要な「空の根拠地」の一つである。

 序《ついで》だが、大戦当時、敵地へスパイを入れるのに、おおいに飛行機を利用したもので、夜中にスパイを乗せて戦線を飛び越え、国境深く潜入して、落下傘《らっかさん》で落してやる。またはこっそり着陸する。連合軍もドイツ軍もこれをやったが、広大な田舎《いなか》[#ルビの「いなか」は底本では「ないか」]の暗夜など防ぎようがなかった。
 ヴィテルの病院で、マタ・アリは、盲目の恋人を労《いたわ》りながら、飛行隊の将校連と日増しに親しくなりつつある。と思うと、ぞくぞく不思議なことが起こって、飛行機の恐慌に陥《おちい》った。いまいったように、密偵を同乗させた飛行機が、ヴィテル飛行場を発してドイツの上空へ消えて往《ゆ》くのだが、それがすべて申しあわせたように、完全に消えうせたきり、けっして帰って来ない。どこへ着陸しても、ちゃんとドイツ兵の一隊が待ちかまえていて、操縦士と同乗者はただちに射殺、飛行機は捕虜《ほりょ》、帰ってこないわけだ。不思議だとはいったが、ヴィテルにマタ・アリがいるかぎり、ちっとも不思議なことはない。
 そのうち、盲目の義勇兵にも飽きたと見えて、マタ・アリはひとりでパリーへ帰る。
 運転手付きの自動車が停車場に出迎えている。ニュウリイのアパアトメントへ走らせながら、見慣れているパリー街景だ。ぼんやりほかのことを考えていたが、やがて急停車したので気がつくと、ニュウリイではない。見覚えのない町筋へ来ているから、マタ・アリはびっくりしている。
 車扉《ドア》が開けられて、降りるようにという声がする。降りた、そこを五、六人の男が包囲してしまう。表面は慇懃《いんぎん》な態度だが、それは冷い敵意の変形でしかないことを、マタ・アリは素早く看取《かんしゅ》した。
「マダム、どうぞこちらへ――。」
 初めて恐怖がマタ・アリを把握したが、さり気なく装《よそお》うことには慣れている。「退屈しきった貴婦人」の体《てい》よろしく、ひとしきり鷹揚《おうよう》に抗弁してみたが、ついにそこの建物の奥深い一室へつれ込まれる。書類の埋高《うずたか》く積まれた大机のむこうに、鋭い青銅色の眼をした老紳士が控えている。背広を着ているが、千軍万馬《せんぐんばんば》の軍人らしい風格、これが有名な「第二号の人」だった。尖《とが》った質問が順次にマタ・アリを突き刺し始める。
「尾行付きのドイツ人とたびたび会っているようですが、どういう要件ですか。」
 第二号は、卓上の報告に眼を走らせながら、急追求を緩《ゆる》めない。この時の感想を、あとでマタ・アリは、一枚一枚着物を剥《は》がれてゆくような気がしたと述べているが、裸体の舞踊家だけに、さすがにうまいことを言った。雨のような詰問《きつもん》を外して、けんめいに逃げを張る。とうとう石の壁に衝《つ》き当って、そこで全裸にされた形だ。第二号はにやりと笑う。
「つまりフランス陸海軍の動静を探って、それを報告しておられたと言うんですな。」
 マタ・アリの手には、最後の切り札が残された。
「ええ。でもあたくし、連合軍のためにしていることなんですわ。ドイツの密偵部の人には、かなり相識《しりあい》もございますけれど、良人《おっと》は英国士官でしたし、いまあたくしのお友達の大部分は、連合軍の主要な地位の方々でございます。あたくし、ほんとのことを申しますと、こういう機会がまいりますのを待っておりましたの。あたくしの方は、すっかり準備ができております。いろいろドイツ軍に不利な事実も知っておりますし、あたくしがそう思うように仕向けて、先方では、あたくしを味方のつもりでおりますから、なんでも聞き出せますわ。なにとぞあたくしをフランスの密偵部にお入れ下さい。御命令どおり、どんなことでも探りだしてきて、かならずお役に立つようにいたしますわ。」
 苦しい詭弁《きべん》を弄《ろう》している。とにかく、立派に自白したに相違ないから、マタ・アリはこれで即座に「処理」されるはずだった。実際、だいぶこの強硬論が優勢だったのだが、第二号は考えた。マタ・アリの知友は、軍部でも外交関係でも、幅のきく連中ばかりである。こいつを死の門に送り込むには、十分すぎるほど十分な証拠を必要とする。さもないと、あちこちの大|頭株《あたまかぶ》から、厄介《やっかい》な文句が出そうだ。これはどうも普通のスパイのように簡単には扱えない――そこで、第二号を取り巻いて私語《ささやき》を交し出す。甲論乙駁《こうろんおつばく》、なかなか決しない。マタ・アリはこっちから、大きな眼に精一杯の嬌媚《きょうび》を罩
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