と見える絹巻きの電線は、じつに隣室の聴取機《ディクタフォン》につうじていた。面白いのは、地下室の酒倉である。各国人の口に適《かな》うための一大ストックを備えていた。あらゆる種類の産地と年代のワインは元より、火酒《ウォッカ》、椰子酒《アラック》、コニャック、ウイスキイ、ジン、ラム、テキラ――それに、Saki まであった。このサキというのは、酒のことだ。ことによると、マタ・アリの手から、この「サキ」の饗応《きょうおう》を受けた日本の大官もあるかもしれない。

 英国の密偵であるという嫌疑の深いエリク・ヘンダスン少佐をものにして、ある秘密を聞き出すべき内命を受けたマタ・アリは、いまソフィア地方へ急行しつつある。

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 H21というのが、ドイツの間諜《かんちょう》細胞としての、マタ・アリの番号だった。彼女のとおり名だった。
 このマタ・アリも英国の密偵エリク・ヘンダスン少佐には、みごとに手を焼いている。ヘンダスンという男は、イギリスの特務機関にその人ありと知られた敏腕《びんわん》家で、赭《あか》ら顔の、始終にこにこしている、しかし時として十分ぴりりとしたことをやってのける、軍人というよりも、ジャアナリズムの触手の通信員|型《タイプ》の人物だった。H21はこれへぶつかっていったのだが、もしマタ・アリが眼先のきく女だったら、この失敗で、ドイツのスパイとしての自分が案外知れわたっていることに気がついて、そうとう警戒の必要を感じたことだろうが、元来この踊り子のスパイは、スパイのためにスパイを働くような性格で、たぶんに、盲目《めくら》蛇《へび》に怖《お》じずというところがあった。いっこう平気で、その後もさかんに活躍している。結局ドイツの密偵部にさんざん踊らされて、死へまでダンスする運命だったのだ。

 ソフィアで、ドイツ大使ゲルツに紹介されて、マタ・アリはヘンダスンに会う。目的は、イギリスとアフガニスタンの外交上の一つの秘密事項を聞きだすため。しかし、相手が、定評ある腕|利《き》きなので、初めからたいした収穫は予期していなかったが、それだけにまた、マタ・アリとしては、腕の見せ場になろうというもの。ちょうど当時、ドイツとアフガニスタンとの間にも進行しつつある交渉に関して、ドイツ密偵部員が潜動しているあいだ、ほんのしばらく、ヘンダスンの注意をマタ・アリの身辺に集めて邪魔《じゃま》しないように足止めしておくことができれば、まず成功だが、その上で、もし機会に恵まれたら、英対アフガニスタンの関係にも、ちょっと糸を引いてみるがいい、というのだ。腕に縒《よ》りをかけてかかる。
 紹介されると、深い茶色の眼を、その背の高いイギリス人の上に微笑《ほほえ》ませて、
「あら、ヘンダスン少佐でいらっしゃいますの? あたくし、古いお友達のような気がいたしますわ。どこかでお目にかかったことがございますわねえ少佐。」
 甘い抑揚《よくよう》をつけて言った。嫣然《えんぜん》一笑、東洋でいう傾国《けいこく》の笑いというやつ。そいつをやりながら、触れなば折れんず風情《ふぜい》、招待的、挑発的な姿態を見せる。ところが、少佐の声は、興《きょう》もなさそうに乾いたものだった。
「そうでしたか。どこでお会いしましたかしら。」
「いやですわ少佐。あたくし思い出しましてよ。あのほらインドのボンベイ。」
「いやそんなことはないでしょう――僕も思い出しました。」
「あら、どこ、どこ、どこでございますの?」
「ベルリン市ドロテイン街一八八番邸。」
「あらっ!」虚を衝《つ》かれたマタ・アリは、たちまち動揺を隠して、立てなおってきた。「そうかもしれませんわ。あたくし、あんまり方々へまいりますので、時々人様や場所のことで、とんでもない思い違いをして笑われますのよ。はあ、ヨーロッパ中を旅行いたしておりますの。東洋の心を舞踊で表現したいというのが、あたくしの芸術上の願望でございますわ。」
 大きなことを言う。エリク・ヘンダスンはくすっ[#「くすっ」に傍点]と笑って、「その東洋の心は」真正面から斬り込んできた。「ヨーロッパ第一の暴れ者に買われたんだそうですな。」
 完全にあだ[#「あだ」に傍点]となっているH21を残して、ヘンダスンはほかの人々へ笑顔を向けていく。マタ・アリは口唇を噛《か》んで口惜《くや》しがったが、どうにもならない。そのとおり報告した。
 ダンサア・スパイ、踊る女密偵、などといろんな浪漫的《ロマンティック》な名で呼ばれているマタ・アリは、ダンサアには相違なかったが、もちろん芸術家ではなかった。裸体で勝手な恰好《かっこう》をするだけの、与太《よた》なものだった。
 彼女の出現は、かえってエリク・ヘンダスンに事態の逼迫《ひっぱく》していることを報《しら》せるに役立っただけだ。
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